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得てして、紬は退院する運びとなり、約一カ月ぶりに自分のマンションへと帰ってきた。
その日は平日で、退院するなら迎えに行くと言ってくれた草悟の申し出を仕事があるだろうと固辞し、紬はタクシーを頼んでもらい、松葉杖姿で自宅への帰還を果たした。
恐る恐る古ぼけた鉄ドアを開ける。
どんな惨状が待っているのかと思いきや、そこはあの日のままの状態。と、一歩踏み入れた紬は、それが間違いだった事を知った。
足裏に触れる床がザラついている。目に入る家具の輪郭が、ほんのり白くぼやけている。リビングのパキラは、とても残念な事になっていた。
「明らかに、掃除してない」
入院中、食事はどうしているのかと心配になって聞いた事があった。それは紬の会社の弁当を買っているから大丈夫だと、そっけなく言われたので一安心をしていたのだが、室内の事にまでは紬自身も気が回らなかった。
まあ、あの惨状を思えば、ゴミの日だけは忘れずにゴミ出しをして、それ以外は何も手をつけなかった事は正解と言える。
「掃除しよ」
気を取り直し、入院中の洗濯物を片付け、ドライモップとウェットモップを使い分けながら、拭き掃除を済ませ、白く霞んだ場所を磨き上げる。残念なパキラは、鉢ごとベランダへと引き摺り出した。
退院直後だとの考えはこの際、一切無視したが、ベッド上の生活は思った以上に紬の体力を奪っていたようだ。
風呂はなんとか綺麗に保たれているし、トイレは休みたがる体を叱咤して、一切合財きれいにした。
ようやく生活空間に満足し、ダイニングに入って行った紬は、そのテーブルに置いてある調味料セットに、ギクリと視線を留めた。
ゆるゆるとその中の一つ、唐辛子の小瓶を手にする。
奇妙に自分の心音が鼓膜に響く。
紬はそっと蓋を開け、掌に微量の赤い粉を出した。
そろっと舐めた。味はしない。
今度は少量を手に取った。
てろっと舐めた。微かな刺激も、味もない。
呼吸が浅くなる。次は、もう少し増やして。その次はもっと、多めに。
無音の部屋で、自分の浅い呼吸と心音だけが耳に届く。
いつの間にか、その場に座り込み、必死に小瓶を振った。
こんな、ちまちまやってられない。
紬は震える指先でその中蓋まで外し、掌へ山盛りにした。
「紬? 何、やってる!」
腕を掴まれたのと、その毒々しい紅い粉を自分の口に入れたのは同時。
「馬鹿かっ、水っっ」
「要らない!」
叫んだ紬に、草悟の瞳が驚きに見開かれる。
「紬、止めろって」
「放せよ」
「馬鹿な事はよせ! 舌が麻痺すんだろっ」
更に手に残った唐辛子を口にしようとして、草悟に掴まれた腕を振り解こうと踠くと、力づくで抱き締められた。
ずっと、自分が欲していたのは、紛れもなく、この優しい温もりだった。
温かく、愛おしい体温。
その強い力に抗い続けるのは、この体ではこれ以上無理だと、紬は草悟の腕の中で全身の力を抜いた。逆にその温かな腕は力を増して、自身を包んでくれる。
「悟を迎えに行く前に、様子見に戻って来て良かった。こんな状態見せたら、またパニックだ」
フゥっと大きな溜息を吐く草悟の言葉に、紬の体がビクリと跳ねる。
「ごめん、悟の事。ずっと謝りたくて、でも、言えなくて」
やはり草悟の顔を見ては言えなかった。
――任せるんじゃなかったっ!
あの日以降、耳の奥でリフレインする、草悟の怒り。
紬は常に自分を責めていた。
「違う! あれは自分に怒ってるって言っただろうっ。お前を責めてなんかいない」
違う。違う。と、紬は首を振る。
「責めて良いんだ。責められるべきなんだ」
大切な子供が行方不明になって動転しない親なんていない。守るべき者は見当たらないのに、託した相手だけがそこに寝転がっているなんて、冗談じゃない。
「あんなに悟のこと怖がらせた俺なんて、責められて、怒られて当然なんだっ」
病室でころころ笑う悟を見る度に、「ごめんな」と呟いた。何度も、何度も。
「違う。守れなかったのも、助けられなかったのも俺のせいだから、お前はそれ以上、自分を責めないでくれ」
泣き叫ぶ悟を思い出しては、跳ね起きた。
目を覚ましても、そこは真っ白で無機質な病室で。自分の中の、何もかもが白く、無に塗られていく気がした。
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