― 代償 ―

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「紬、顔を上げろ」  草悟のあの怒声を思い出す度に、その言葉を向けられるべきは自分だと、背中が冷たくなった。 「味がしないんだ。舌の感覚も無い……」  ポツリと零した紬の言葉。  今しがたの状況で、気付いていたのだろう。草悟は「そうか」と頷いただけだった。 「あれだけ全身検査されたから、神経も脳も異常が無いのは証明済みなのに」  乾いた紬の笑みは、草悟の笑顔までは引き出せない。 「大丈夫だ。また料理も出来るし、仕事も続けられる」  力づけの為に言ってくれる草悟の言葉に、紬は力の無い笑みを零す。 「何で、そんな事が言えるんだよ」 「仕事は紬ほどの経験があれば、管理栄養士の資格を生かして、カロリーからのメニュー作りもこなせるし、調味料の量も決まってる。細かい所は同僚に助けてもらえる」  「違うか?」と真顔で覗き込まれても、紬の心の一番が取り戻せない。  もう二人に。草悟に、ご飯を作ってあげることが出来ない。あの笑顔が見られない。  空っぽな音を立てて転がった小瓶が、床へと僅かに残った紅い粉を撒いていた。 「せっかく掃除したのに」  草悟の力強い腕に抱き締められたまま、ふと見下ろした手も、あの日のように、赤に染まっている。それも構わずに、紬は辺りに散った唐辛子を掌で寄せ集めた。  スルスルと床を撫でる音。それ以外は互いの間に沈黙しかない。その沈黙が紬の思考を、やけにクリアにさせる。  もう、草悟が美味いと言ってくれる料理を、自分は作れない。  紬の中でひたひたと、襲ってくる思い。  満ち潮の如く押し寄せるそれに、紬は溺れそうに苦しくなる。  肺を押し、気管を固まりで広げ、喉元まで競り上がり、ぐぅっと音を立てて、食い縛った奥歯をも開かせ、溢れだす。  駄目なのに。今は、草悟に気を遣わせるだけなのに。 「お邪魔するよ。まったく物騒だね。鍵が開いてたよ、紬くん」 「草悟に、美味しいって笑ってもらえない」  紬の悲痛な嗚咽が零れ、突然の訪問者は、その光景に絶句する。  いつものにこやかな笑顔は凍りつき、数秒後、それを解くかのように、ゆっくりと、重たい息を吐きだした。 「これは、どういう状態?」  誰に問うているのか、塚山は自身にも分かっていなかったのだろうか。  身を屈めて震える紬の傍で、塚山が現れて腕を解いた草悟は、立ち尽くしたまま微動だにしない。 「ねぇ、何、これ」  いつもは自分には届かないほど大人な彼の、低く響く声の激していく様が、はっきりと分かる。 「どうして紬くんが、そんな怪我してるの。どうして、そんな悲痛な声で泣いてるの」  そうだ、彼にも告げなければいけなかった。 「ごめんね、塚山さん。俺、もう、塚山さんにも、ご飯作れない」  震える声で絶え絶えに伝えた謝罪に、塚山の表情が更に険しくなる。 「誰も、そんな事を聞いてるんじゃない!」  その怒りの鋭い矛先は、草悟に向けられていた。 「仙条、僕はあれほど、彼を巻き込むなと言った。聞いていないなどとは、絶対に言わせない」  振り向く形相は、それこそ鬼のようだった。  あの日、草悟が見せた、大切なものを守れなかった者への、怒りと責め。 「一言もありません」  塚山の激しい叱責を、草悟はそれこそ、避ける事もなく受け止めた。  鈍い音が部屋中に響く。 「塚山さん!」  何時も明るく穏やかな塚山が激高するところなど、見た事が無かった。ましてや、感情のまま人を殴るなど、想像もできない。 「冬季休暇をずらしておいて正解だったよ。暫く、お前の顔を見なくて済むと思ったら、せいせいする」  草悟に投げ捨てるように言うと、徐に塚山は台所へと入って行った。 「唐辛子なんて、そんなに舐めちゃいけないよ」  戻って来た塚山は、紬の傍に座り込むと、彼の方が痛そうな貌で微笑む。  濡らした布巾で真っ赤な手を。洗面所で探し当てた濡れタオルで、口元を優しく拭ってくれる。 「君の一番大事な、仕事道具でしょ」
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