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「紬くん、酸っぱい葡萄って知ってる?」
塚山の溜息混じりに、紬はニッコリと笑って頷いた。
「知ってますけどね、本当に手にする努力をして齧ってみる気なんてないですよ。だって、本当は甘いかもしれないって言うだけで、実際甘い実を手にした話じゃなかったでしょ」
そのまま再び下拵えに入った紬に、塚山はけらけらと豪快に笑う。
「それ言ったら、身も蓋もないでしょう」
ふと、ジーンズのポケットでスマホが鳴っている。番号は固定電話のようだが、登録はされていない。
見た事もない番号に、美沙の事を思い出し、紬の背中に冷たい汗が流れた。
「僕が出ようか」
緊張に気付いた塚山が申し出てくれたが、紬はそれを断り、意を決して通話を開いた。
「はい」
警戒心に短い返事になってしまうのは、許してほしいところだ。
『夜分、遅くに失礼致します。ササラ保育園ですが』
そう名乗られても「はあ」としか返す言葉が、見当たらない。
しかしどこかで聞いたような。との思考が隅に追いやられた記憶を見つけてくるより先に、遠い向こう側から「いやなの、ごちたまするのぉ」という、聞いたことのある叫び声が聞こえてきた。
すでに泣き叫びに近いそれに、紬は思わず、「あーあー」と呟いてしまう。
「何となく事情はお察ししました。お疲れ様ですね」
苦い記憶となってしまったあの日、臨時代行で悟を迎えに行った保育園で、身元確認用の携帯番号を記入させられたのを思い出す。
『あの、突然お電話差し上げて申し訳ありません。実は悟くんの事で少し、宜しいでしょうか』
控えめながらも、心底困ったと声が伝えて来ているが、自分は父親でも無ければ親類でもない。
「御存じの通り、僕は家族ではないのですが、僕で良いのでしょうか」
こちらも困惑の色は隠せない。
『はい。あの、以前から悟くんの偏食は激しいものだったのですが、最近、特に、その、お家の方でも食べていないようで、明らかに体重が落ちてきているんです。今日はお父様のお帰りが遅くなるとかで、園での夕飯なんですけれど』
父親である草悟の食べているものにも、保育園で出される給食にも、おやつにも、殆ど手をつけない悟に、保育園側が危機感を持つのも無理はない。そうして悟が最近「むぅのまんま」と言い出し、草悟に理由を尋ねたのだと説明してくれた。悟の虐待で警察沙汰になった美沙の事まで承知済みで、ただの我儘とは少し違う不安定な悟を、どうにかしないといけないと紬の所まで連絡がきたらしい。
「事情は分かりましたが、実は、こちらも療養中でして」
言い淀む先で、保育士の希望が凋んでいくのが分かる。
自分だって二人の為に料理がしたい。美味しいと笑う、あの顔が見たい。けれども、今の自分の舌では、悟の偏食に拍車をかけそうで怖いのだ。
『むぅ、むぅの、まんま』
迷う心に、悟の声が届く。
「紬くん」
呼ばれた声に振り向くと、お弁当箱を持った塚山がいた。
「一度、切らせてください。すぐ折返しますから」
紬は慌てて通話を切る。
「お弁当作ったら、僕が届けてあげるよ」
「でも、まだ」
「ぼんやりとは戻ってきてるでしょ。だったら、やってみたら良いじゃない。最終の味見は僕がしてあげるから。ね、出来るよ」
それから紬はすぐに電話を入れ、今から直ぐに作って、お弁当を持って行くことを約束した。
常備出汁がないので、いつもの出汁巻きになっているか分からない。悟の好きなトリの麹焼きも、付け合わせのブロッコリーの茹で加減も、ニンジンともやしのナムルも、いつものお気に入りになっているか自信はない。
それでも作っていると、楽しくて、嬉しくて。自然と顔は綻んだ。
「作り過ぎた」
呟いた紬に、塚山はもう二つのお弁当箱を出して来た。
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