364人が本棚に入れています
本棚に追加
/37ページ
「なんだか、お弁当が羨ましくなっちゃったから、僕にも詰めて」
「塚山さんには、お手伝いさんに作ってもらったご飯があるんですよ」
「両方食べるよ」
本当に子供のような顔でせがむ塚山に押し切られ、さらにお弁当を詰めることになった。
「俺はそんなに食べられないんだけどな」
合計三つに増えたお弁当を見つめ、難しい顔をする。
「何言ってんの、もう一つも届けるんだよ」
「どこに」
「悟くんの、ととに」
塚山は心底楽しそうに、二つのお弁当を包み始めた。
「ちょ、待って塚山さん」
「待ちません。じゃ、行ってきます」
颯爽と片手を上げて、塚山はキッチンを素早く出ていってしまう。
「くっそう、俺の足が本調子じゃないところを突きやがった」
数日前にギブスが取れたばかりの脚は、あまり急激な無理が効かない。
「まったく」
上手く塚山に乗せられたと、悔しく思いながら、キッチンを見渡す。
汚れた食器に、使ったフライパン。菜箸にブロッコリーを水切りした笊。
何だか不思議と、すがすがしい気分になっている自分に気付く。
味覚が完全に戻らなくても、良いのかも知れない。
食べて欲しい人の為に、料理をする。それで良いのかもしれない。
「美味いな」そう言う草悟の笑顔が、ふわっと浮かぶ。
鼓動がトクンと跳ねた。
食べる事は生きる事。存在すること。彼が存在することに、自分は必要である。
そんな馬鹿な事はもう思わないし、自分にはそれしかないなんてのも、もう考えないけれど、その手伝いが出来る人間が要るなら、自分がしたい。
二人の傍に居たい。
草悟の傍に居たい。
「好きっていったら、驚くかな」
片付け最後のフライパンを水切りに置き、思わず呟いた。
「喜ぶよ」
自分一人だと思っていたら、塚山が帰ってきていた。
「まったく、大人達は何をしているんだろうね。悟くんの方がよっぽど行動力がある」
悟が主張したのはそうかもしれないが、行動したのは園の保育士だ。
「塚山さんに、お話しがあります」
「きっと、悲しくて泣いちゃうね」
さっきの呟きは自分に向けられたものでなく、紬の心の中も決まったのだと、塚山は確信しているようだった。
「今まで、大変お世話になりました」
深く頭を下げる紬に、塚山は優しく微笑んだ。
「それは駄目。これからも紬くんは僕のお抱えシェフなんだから」
先回りした、宣言と要求。
「それなら、ハグはなしでお願いします」
「じゃあ、報酬はどうするの」
「報酬はなしで。研修だと思って頑張りますよ」
「それじゃ、僕が淋しい」
そこへ再び、紬のスマホが着信を知らせてくる。
画面を見ただけで、紬の鼓動は跳ね上がり、指先が震えた。
「出て良いよ」
塚山が物分かりの良い顔で頷く。
「すいません」
塚山に向けたその一言ですら、動揺が隠せず震えた音になる。
「もしもし、草悟」
実に一週間ぶり。
『紬、弁当、サンキュ。美味かった』
その「美味かった」が聞けたのは、さらに一ヶ月ぶり。
電話の向こうの草悟は、今どんな顔をして言ったんだろう。ちゃんと、本当に美味しく出来ていただろうか。
――笑顔だったらいいな。
『やっぱり、紬の味、好きだ』
「え?」
笑みを含んだ愛おしい声に、紬の想いが揺れた。
『優しくて、温かい、お前の味』
「あ……」
きゅっと、不安ごと抱きすくめられた、あの時の草悟の温かさが全身に蘇る。
切なく熱くなる想いを、どうしたら押さえられるのだろう。
最初のコメントを投稿しよう!