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― 幸せの味 ―
「うっわぁ、なんか勢いに任せて、恥ずかしい事言ったな……俺」
自室のベッドの上で、今日の出来事を反芻していた紬は、最後の自身の言葉に身悶えた。
興奮した脳ではなかなか寝付けず、ベッドの中でごろごろと転がり回っては、気恥ずかしい浮遊感に浮かされていた紬は、明日は休日だからと、無理に寝るのを諦めた。
「よし、出汁とろう」
むくりと起き上がり、パジャマのまま台所へと向かう。
ここのところ、この部屋に誰かが居たり、他人の家に居候したりと、常に人の気配を感じていただけに、少し人恋しい。
紬はいつもの癖で、だし昆布の欠片を口に放り込んだ。
「――ん?」
違和感に首を傾げる。違和感というよりは、以前では当たり前だった感覚が、戻ってきたというべきか。
紬はダイニングテーブルの調味料セットから、食卓塩の瓶を手にとり、微量を掌に零した。
いつかのように、緊張しながら、舌先でちろりと舐める。
「あ」
同じ量だけ出して、もう一度舐め取った。
「戻った……」
気付けば味覚が戻って来ていた。
確かに昨日までは、まだまだぼやけたままで、薄っすらとした味は分からなかった。
何が起きたのか自分にも分からないが、マイナスなことじゃない。
味覚障害がストレス性のものだったのだとしたら、ぶち撒いたことが良かったのだろうか。
「これで、草悟に美味しいって……」
そこまで考えて止めた。
あの後、草悟からは拒否もなければ、諾もない。何の返事ももらえなかった。笑って「じゃあな」と言うしか、方法はなく、紬はそれ以上、草悟の側に居ることを止めた。
「ん。作りたいもの作って、忘れよう」
普段から常備している出汁を取りながら、カレーも煮込む事にして、炒め玉ねぎを作り始める。
「あぁ、久しぶりに、オニオングラタンも良いな」
紬は作り始めたら止めどなく、作り置きが出来るものを作ってしまう。これはもう癖というか、習性というか、生まれ持ってのものなのだと、自分では諦めていた。
「塚山さんに、やっぱり葡萄は酸っぱかったって、文句言わないと」
大量の玉葱スライスをフライパンに入れ、飴色になるまで焦がさないように炒める作業は、今の浮ついた気持ちを落ち着けるのに丁度良い。
時間も忘れ没頭しすぎ、気付いた時は、初春の夜も明けきった午前七時前。
四時間半ほど台所に立っていたらしい。
「さすがに寝ないと」
出来あがったものは、目覚める頃には熱も冷め、保冷バックに入れられるだろう。
それ以上作るのは止め、今度こそ大人しくベッドへと入った。眠りはすぐにやって来て、穏やかな温かさに包まれる。
甘い玉ねぎの香りの中、ホッと、吐息を漏らした時には、既に眠りの中にいた。
聞きなれた電子音が鳴っている。
意識のかなり遠くで、テレビの短時間料理番組でお馴染みの、軽やかな曲が流れていた。
「ん? んん? 塚山さん?」
それが自身のスマホが発する、塚山の着信曲だと気付いた紬は、慌てて枕元のスマホを耳に当てた。
「はい、塚山さん? どうしたの」
冬の乾燥も手伝って、寝起き一番に発した声は、思った以上に掠れていた。
『おはよう、紬くん。寝起きの掠れた声も色っぽいね』
電子機器を通して聞く塚山の声は、普段の数倍軽く聞こえて、いつも笑える。
「そんなフザケた科白はいいから、何デスカって聞いてるんデス」
『なんだか、所々棘が混じってカタカナに聞こえるんだけど、まぁ良いか。あのね、急なんだけれど、今、君の部屋に居るから』
寝惚けた頭には、それこそどこか異国の言葉に聞こえ、紬はすぐに反応出来なかった。
『おおい。紬くん、起きて。おはよう』
くすくす笑いながら「おはよう」と繰り返す塚山は、完全に紬の反応を面白がっている。
「もう、一回言ってもらえますか?」
ベッドの上に起き上がり、紬は願い出た。
『何度でも。おはよう』
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