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「泣きやまないな。ホットミルクでも作ろうか。アレルギーは?」
アレルギーに対して厳しく言われ始めた昨今、第一に挙げられる食物アレルゲンが、牛乳と卵と小麦粉、蕎麦に青魚に大豆。
どれも美味しいが、最初の三つにアレルギーがある子供は、お菓子や病食に出される饂飩も食べられない。気の毒でもあり、職場でも、指定のある食事には、細かい決まりに細心の注意を払う。
「食物アレルギーはない。悪いが何か食べる物を作ってくれるか。お前、腹減ってるんだろ」
ぐずり続ける悟に草悟が問い掛けた最後の言葉に、紬は驚いて時計を見た。
とっくに夜中の一時は回っている。子供にとっては深い眠りに落ちている時間に、腹が減って目が覚めるとはどういうことだ。
「飯の前って言うより、最中に追い出されたから、ほとんど何も食ってないんだコイツ」
「はぁ?」
呆れよりも怒りが沸いてくる。小さな子供にとって食べるのと寝るのは同等に、そして最大に重要で必要な事だろう。それを疎かにさせ、寒空の元連れ回すなんて、何を考えているのだ。
「分かってるから。紬の怒りは十分。俺が聞くから、先に何か作ってやって」
思考がぐるぐると回りながらも紬は、塚山の食事を作る為に買い込んだ食材の余りで、手早く二人分の食事を作りに、簡易キッチンへと向かう。
「分かった。悟…くん、直ぐ作るから」
仙条の腕の中でめぇめぇ泣いている悟の頭を、少し緊張しながら一撫でしてやると、キョトっとした大きな涙瞳がこちらを向いた。その瞳の色の無さに、紬の胸がギュッと絞られる。
「呼び捨てでも良いよな? 悟」
冷えた息子の心を温める様に、草悟が柔らかい声で、優しい視線で覗き込んでいる。
「もう少しだけ待ってて、悟」
そう言って調理台の前に立ったものの。――不味い。
ふと、あの時の言葉が浮かぶ。
「この子の好きな物は」
「コイツは、味覚が鋭いらしい」
二度と聞きたくない言葉の為に勇気を出して尋ねたのに、返ってきたのは最も抽象的な言葉だった。
「似なくていい所まで似ちゃったんだよな」
それ以上は答えをくれなさそうな草悟に、紬は諦めの笑顔を向けた。
「難しい」
大学を卒業する前までは、親友だった男。
草悟は大の偏食家で、歴代の中でそれを理由に別れた恋人も少なくない。
彼もそんな自分を理解しているが、偏食を直せずにいた中、唯一、食べられる料理を作るのが紬だった。
『紬の飯がないと生きていけない』と言われ続ける毎日は、とても幸せな時間だった。
彼に恋人が居ても、毎日と言っていいほど彼の為に食事を作る。結局、草悟には自分しか、自分には草悟しかいない。彼が喜ぶ顔を見られるなら、ただの飯係でも良いと本気で思っていた。
食べる事は生きる事。存在すること。
彼が存在することに、自分は必要である。
そんな当時の紬の思考は、まさに甘い蜜に浸かった中毒だった。
しかし、突然、そんな中毒の日々は終わる。
あのゼミ合宿の日、何が起こったのか、紬は未だに分からない。
ただ、草悟はあれ以来、紬の傍から離れ、そして新しい恋人をつくり、数年もの間、二人の関係は没交渉と言ってよいほど、今日、突然の再会を果たすまで、互いの事は知らないままだった。
次第に漂う料理の匂いに、辺りは包まれる。
クリスマスに追い出された親子に手早く作った料理は、野菜ブイヨンとトマトケチャップで味付けした、キノコとほうれん草のスパゲッティナポリタン。
「はい、どうぞ」
普段、塚山の食事はダイニングテーブルでとっているが、今は小さな悟が居るので、ソファーの置かれたリビングの座卓へと運ぶ。
あまり広くない座卓の上を、店の在り物で急遽パーティ用にセッティングし、飲み足りないだろう塚山には、二人に出した食事をチーズ焼きにして、酒の肴にアレンジした。
「サンキュ。ほら悟、メシ食うぞ」
緊張の面持ちで皿を置いた紬に対し、草悟はあっさりと感謝を口にし、自分の方へと向いていた小さな体を、テーブルへと向ける。
その瞬間、悟は、ワッと火が付いたように泣き始めた。
「おーい、悟。大丈夫、大丈夫」
「わいの、わいのっ。とと、わいわい」
「わいわい」と繰り返す悟をもう一度自分の胸元へと向けて座らせると、草悟は無言で背中を摩る。
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