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― 温もりを きみに ―
悟は、ようやく草悟の膝から降りて自分で食べ始めた。
「子供用のカトラリーがないから、食べにくいかな」
店にも休憩室にも大人用のカトラリーしか置いていない。大人用では食べにくいかと、一応はデザート用のスプーンを出したが、悟が本来どれほど動く子供かが分からなかったので、危ない目に遭わせるよりは良いかと、フォークまでは出さなかった。
「食いにくそうだったら、紬が食べさせといて」
「なんで俺が」
困惑する紬を草悟は一瞥すると、肩を竦めて当然だろという仕草をする。
「俺だって腹が減ってるから」
言いながらも次々と料理を胃に収めて行く草悟は、本当に腹が減っていたらしい。
「ああ、ほら悟、それ入れ過ぎ。口の中が無くなってから」
少し余所見をしている内に、悟の口はパンパンに膨れあがっている。それなのに、まだ詰め込もうとする小さな手を、慌てて止めた。
止められた手のスプーンには、次に口へ入る予定のキノコがのっている。悟は、もぐもぐと必死に口の中の物を咀嚼しながらも、じっとスプーンを見つめていた。
「誰も取ったりしないよ。ゆっくり食べて」
余りの必死さに苦笑しながら、口の中が空っぽになったことを確かめて、彼の指差す「次に食べたい物」をスプーンで口元へと運ぶ。それを何度も繰り返していると、慣れた悟がフワリと微笑むようになり、「まんまんまんまん」と繰り返した。
「そう、美味くて良かった」
「紬くん、お母さんみたいだね」
悟の可愛らしい仕草に、興味深そうに眺めていた塚山が笑いながら言った。
塚山は特に非難めいた事を言ったわけでも、先程のように冷たい雰囲気になったわけでもないのに、ビクっと悟の小さな体が強張った。
「悟? どうしたの」
急に固まって動かなくなった悟の顔を覗き込むと、みるみる目に涙が溜まっていく。
「かか、めんね」
また泣き出した悟に、紬と塚山が困惑していると、皿の物を綺麗に食べ終わった草悟が、「代わるわ」と言って紬の横に座った。
「これは紬が作ったんだよ。かかはここに居ない。悟は何を謝ってるんだ。皆、今怒っていたか?」
スプーンを口元に寄せながら悟に問い掛ける声は柔らかい。
「むぅ、めんめない」
「ん? 紬は〝むぅ〟か。ほら、食べろ。腹いっぱいになったら、寝ちまえ」
「とと、めんね。めんね」
「悟は謝ることなんてないぞ。ととが全部悪いんだ」
腹がいっぱいになれば眠れると、草悟は悟を諭し、息子の口元へとスプーンを運んだ。
次第に食べるスピードが落ちた悟は、その内、舟を漕ぎだして揺れ始めた。
「おっと、これ以上は無理か」
草悟はスプーンを皿に置き、揺れる小さな体を腕に抱き抱え、トントンと背中をあやす。そうやって寝入る悟を見守る顔は、しっかりと父親の顔をしていた。
もう昔の彼ではないのだと、紬は少し疼く胸を隠し、そっとその場を離れた。
「紬くん、もう一杯貰える? それと、仙条と君の分も用意して」
おそらく、居たたまれずに立ち上がった自分の思いを、塚山には気付かれたのだろう。
「あ、はい」
父親の草悟も、社会人の草悟も、自分は知らない。大学までしか親しい関係でなかった自分は、当然そんな彼の顔を見た事がない。
ただそれだけの事が、喉の奥で鉛のように重く、詰まっている。
こんな事では、そのうち職場の上司である塚山にさえも、嫉妬してしまいそうだ。
蒸し返された想いは、ブレーキが効き難い。
追加の酒と肴を用意して戻ると、悟は塚山の柔らかく温かいカシミヤのコートを掛けられ、ソファーに寝かされていた。
「まったく、部下にプライベートを邪魔されるなんてね」
「お邪魔はしませんよ。今から紬と出掛けますか」
「それは駄目だろうね。紬くんは意思が固いんだよ。自分から言わない限りは、誘いに乗ってくれないんだ」
酒と肴を手にした紬を見遣り、塚山は「ほらね」と言わんばかりに肩を竦めてみせた。
「まさか、紬が塚山さんの恋人だとは思いませんでしたよ」
「恋人じゃなくて恋人候補だよ。口説いている真っ最中」
「また、勝手な事を」
紬の呟きは溜息混じりになってしまう。
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