― 温もりを きみに ―

1/6
前へ
/37ページ
次へ

― 温もりを きみに ―

 悟は、ようやく草悟の膝から降りて自分で食べ始めた。 「子供用のカトラリーがないから、食べにくいかな」  店にも休憩室にも大人用のカトラリーしか置いていない。大人用では食べにくいかと、一応はデザート用のスプーンを出したが、悟が本来どれほど動く子供かが分からなかったので、危ない目に遭わせるよりは良いかと、フォークまでは出さなかった。 「食いにくそうだったら、紬が食べさせといて」 「なんで俺が」  困惑する紬を草悟は一瞥すると、肩を竦めて当然だろという仕草をする。 「俺だって腹が減ってるから」  言いながらも次々と料理を胃に収めて行く草悟は、本当に腹が減っていたらしい。 「ああ、ほら悟、それ入れ過ぎ。口の中が無くなってから」  少し余所見をしている内に、悟の口はパンパンに膨れあがっている。それなのに、まだ詰め込もうとする小さな手を、慌てて止めた。  止められた手のスプーンには、次に口へ入る予定のキノコがのっている。悟は、もぐもぐと必死に口の中の物を咀嚼しながらも、じっとスプーンを見つめていた。 「誰も取ったりしないよ。ゆっくり食べて」  余りの必死さに苦笑しながら、口の中が空っぽになったことを確かめて、彼の指差す「次に食べたい物」をスプーンで口元へと運ぶ。それを何度も繰り返していると、慣れた悟がフワリと微笑むようになり、「まんまんまんまん」と繰り返した。 「そう、美味くて良かった」 「紬くん、お母さんみたいだね」  悟の可愛らしい仕草に、興味深そうに眺めていた塚山が笑いながら言った。  塚山は特に非難めいた事を言ったわけでも、先程のように冷たい雰囲気になったわけでもないのに、ビクっと悟の小さな体が強張った。 「悟? どうしたの」  急に固まって動かなくなった悟の顔を覗き込むと、みるみる目に涙が溜まっていく。 「かか、めんね」  また泣き出した悟に、紬と塚山が困惑していると、皿の物を綺麗に食べ終わった草悟が、「代わるわ」と言って紬の横に座った。 「これは紬が作ったんだよ。かかはここに居ない。悟は何を謝ってるんだ。皆、今怒っていたか?」  スプーンを口元に寄せながら悟に問い掛ける声は柔らかい。 「むぅ、めんめない」 「ん? 紬は〝むぅ〟か。ほら、食べろ。腹いっぱいになったら、寝ちまえ」 「とと、めんね。めんね」 「悟は謝ることなんてないぞ。ととが全部悪いんだ」  腹がいっぱいになれば眠れると、草悟は悟を諭し、息子の口元へとスプーンを運んだ。  次第に食べるスピードが落ちた悟は、その内、舟を漕ぎだして揺れ始めた。 「おっと、これ以上は無理か」  草悟はスプーンを皿に置き、揺れる小さな体を腕に抱き抱え、トントンと背中をあやす。そうやって寝入る悟を見守る顔は、しっかりと父親の顔をしていた。  もう昔の彼ではないのだと、紬は少し疼く胸を隠し、そっとその場を離れた。 「紬くん、もう一杯貰える? それと、仙条と君の分も用意して」  おそらく、居たたまれずに立ち上がった自分の思いを、塚山には気付かれたのだろう。 「あ、はい」  父親の草悟も、社会人の草悟も、自分は知らない。大学までしか親しい関係でなかった自分は、当然そんな彼の顔を見た事がない。  ただそれだけの事が、喉の奥で鉛のように重く、詰まっている。  こんな事では、そのうち職場の上司である塚山にさえも、嫉妬してしまいそうだ。  蒸し返された想いは、ブレーキが効き難い。  追加の酒と肴を用意して戻ると、悟は塚山の柔らかく温かいカシミヤのコートを掛けられ、ソファーに寝かされていた。 「まったく、部下にプライベートを邪魔されるなんてね」 「お邪魔はしませんよ。今から紬と出掛けますか」 「それは駄目だろうね。紬くんは意思が固いんだよ。自分から言わない限りは、誘いに乗ってくれないんだ」  酒と肴を手にした紬を見遣り、塚山は「ほらね」と言わんばかりに肩を竦めてみせた。 「まさか、紬が塚山さんの恋人だとは思いませんでしたよ」 「恋人じゃなくて恋人候補だよ。口説いている真っ最中」 「また、勝手な事を」  紬の呟きは溜息混じりになってしまう。
/37ページ

最初のコメントを投稿しよう!

365人が本棚に入れています
本棚に追加