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「それは、却下」
即答したのは塚山だった。
「これは、塚山さんに聞いていませんよ」
「言っただろ? 恋人候補だって。いくら仙条でも、好きな人の傍に男は置いておけないんだよ。だから僕の家においでって言ってるじゃない。もしくは、実家に帰りなさい」
いつもの食えない笑顔ではあるが、その瞳にはちらちらと光が灯っている。
「実家とは折り合いが悪いんですって。それに、塚山さんの恋人になるほど、紬は腹黒くないです」
「心配しているのに、酷い言われようだ。仙条は降格されたいのかな」
「プライベートに、さっき否定したばかりの人事権、持ち出さないでくださいよ」
再び始まった上司と部下の勝手な応酬に、紬は置き去りにされかける。はっと、我に返り溜息を吐きたくなった。
「はい、ストップ。確かに小さな悟を路頭に迷わせることは出来ないから、しばらくの間置いてやる。塚山さん、良いですよね」
一応、言い寄られているのは本当なので、幼い子供の名前を借りて、塚山に理を入れた。
「ずるいよ、紬くん。小さな子の名前を出すなんて」
「だから、草悟の事は安心して仕事に駆り出してください」
「それは名案だね」
紬の言葉にせっかく明るく頷いた塚山に、草悟が余計なひと言を付け加えた。
「そうしたら、塚山さんも、紬に会えないんですけどね」
「とんだ妙案だね」
だからと言って、塚山はもう反対をしなかった。人の上に立つだけの切れ者は、美沙が二人を探し始めている現状を知り、会社関係の場所よりは、今日まで没交渉だった紬の傍が最善だというのも理解している。
「まったく、紬くんの“お願い”に僕は弱いんだ」
そう言って塚山は困ったように微笑むと、暇を告げてきた。
「これ、悟くんに掛けてやって」
塚山はタクシーを二台呼ぶと、悟に掛けられているコートの替わりに、スタッフ用の毛布を出して草悟に手渡した。
紬はいつものように塚山のコートを手に持ち、先に彼を見送る為に連れ立って外に出る。
「じゃ、塚山さん。また、いつでもどうぞ」
軽く手を振る紬に、塚山はそっと寄って来て、苦い思いを混ぜたように小さく吐息し、危なっかしい子供を見るように微笑んだ。
「あのね紬くん、あんまり無理しちゃ駄目だよ。辛くなる前に連絡しておいで」
塚山は、奥に居る草悟に聞こえないように、声を落とし紬の耳元で囁いた。
手にしていた上質なコートを、持ち主の肩にそっと掛けながら、紬は声もなく苦く嗤う。
「そうやって嗤っている内は、まだまだ心配だ。やっぱり、今日は君を連れて出ようか。彼等の事を忘れるくらい、乱れてみる?」
「また、そんな出来もしない事を」
ふざけて腰を抱き込んでくる塚山の手を、軽く叩き、睨んで見せたが、あまり拒否の効果はなかったようだ。
「出来るよ。だけどしない。君が困るのが分かっているからね」
塚山は叩かれた手をそのまま紬の頬へと滑らせると、フフッと悪戯を企んだ笑顔で笑う。
「本気なんだよ」
「塚山さん」
悪戯というよりも、獲物を狙う目に近いのか。今までに無い、眼光を宿した瞳が、真っ直ぐに紬を見つめていた。
――ガシャンッ!
派手に金物がぶつかり落ちる音が鳴り響き、その後にぐわんぐわんと転がり回る音。
いつもならあり得ない音と共に、紬の安らかな眠りは覚まされた。
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