第4章 マンションの住人

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第4章 マンションの住人

 「高山様。そんなことありませんよ。そんな、曰く付きの部屋だなんて止めてください。」 平井はいつになく強い調子で賢治の話を完全否定した。 「あのですね。そういう曰く付き物件、俗に言う事故物件については法律で説明の義務があると明記されてます。不動産屋がそれを隠して契約した場合罪に問われるわけです。だからそんなことは断じてございません。」 賢治は不動産屋へ借りた部屋で起こる奇怪な出来事について追及しに来ていた。 「じゃあ実際にクローゼットの中を調べてみましたか? 天井のどこかに赤くなった痕跡でもございましたか?」 平井にそう詰め寄られて賢治は言葉を詰まらせた。クローゼットの中はすべて調べていた。だが、群衆の声が聞こえたなどと言う痕跡はどこにもなかった。玄関やリビングの窓から差し込んだ強い光については管理人のおばあさんにも聞いたが、車のヘッドライトかなにかじゃございませんか、という見解だ。2階の部屋だ、何かに車が乗り上げて一瞬ライトが2階を照らした可能性は否定出来ない。リビングの天井はどこをどう見ても赤くなった痕跡などありはしなかった。 「じゃあ、高山様。これ、本来お見せできないんですが、あの部屋を借りた前の方、更に前の方の契約書です。」 平井はそう言って2つの契約書を持って来た。借主の名前、住所、電話番号などを塗りつぶしたコピーだ。 「いいですか、前の方は今年の夏頃転勤と言うことで解約されていますが、入居されたのは3年前のことです。そしてその前の契約者はこの方が入居されたすぐ前に契約解除していますが、住み替えと言うことですね。7年間あの部屋をご利用頂いています。この日付を見れば明らかです。」 平井は契約書の契約日を指さした。契約の終了は管理会社でないと分からないが、部屋が空いたという情報が入った日は事務帳票で明白だった。平井はそれも賢治に披露して見せた。 「いいですか、高山様。これで10年あの部屋はごく普通の方が借りていたこと、お二人ともごく普通の理由で契約解除されたことがお分かりいただけるはずです。曰だの、因縁だの、そんなものが存在するなんてことは全くありません。」 こうなっては賢治もこれ以上ごねることは出来なかった。いや賢治とておかしな現象が起こって家族の安全を脅かしているから尋ねているわけで、この10年あの部屋で何か事故や事件があったなんてことが完全否定されたとあっては納得して引き下がるしかなかったのである。  賢治は店を出てトボトボと歩き出した。しかし昨夜の出来事はいったい・・・。一人一人の身に起こったことは精神的な問題と解釈することも出来るだろう。だが、家族3人で経験した昨夜のことはどう説明できる? そして亜紀が聞いてきたマンションに起こった怪奇現象の目撃情報はどう解釈すれば・・・。  とにかく今の部屋を出ようかとも考えた。だが、折角義父の援助も受けて手に入れた広くてきれいな部屋を理由も分からずに出るのはあり得ない気もした。第一義父にどう説明したらいいんだ。おかしなことが起きるからまた引越しますでは通るまい。何の答えも見つからないまま賢治は家路を急ぐこととなっていた。  そこへ携帯が鳴り出した。諒佳からだった。娘の亜紀が高熱を出したという。市民総合病院へ連れて行くから、もう帰れるのならそっちへ来て欲しいと言うことだった。賢治は最寄り駅へ到着すると駅の反対側の市民総合病院を目指した。  「どうなんだ? 亜紀の様子は?」 病院の待合いロビーはガランとしていた。既に6時を回っており町には夜が訪れていた。 「原因はすぐには分からないみたい。多分風邪か何かじゃないかってお医者さんは言ってるわ。」 諒佳は心配そうな顔で賢治に言った。 「採血と胸のレントゲンを撮ったからそろそろ結果が出るって。」 諒佳と賢治は亜紀が寝かされている処置室のベッド脇へ行った。 「亜紀、どうした、大丈夫か?」 賢治はやさしく娘の額を撫でた。額は火のように熱かった。亜紀は熱に浮かされて半分眠ったような状態である。二人心配そうな顔を見合わせたところに医者が現れた。小児科医だという。澤村と書かれたIDを付けていた。 「採血の結果もとくに異常はありませんでした。CRP値も正常、身体のどこにも炎症は起こっていません。胸のレントゲンも特に所見はありませんでした。もちろん肺炎などでもないようです。たぶん知恵熱というか何かを考え過ぎたために起こった症状ではないかと思いますが、思い当たる節はございませんか?」 医者にそう言われて諒佳と賢治は顔を見合わせてしまった。 「何かありそうですね。この年頃のお子さんの場合、身体は健康体でもしばしば熱を出すことはありますので、余り心配することはないと思います。」 諒佳は涙ぐんでいる。 「まだ熱も高いようですから今日はこのまま入院されてはいかがでしょうか? 慣れないベッドで更に興奮状態になると言うことも考えられますので、親御さんの判断に任せますが・・・。そろそろ薬も効いて来るはずなので帰られても大丈夫だと思います。」 「はいお願いします。今日は入院させてください。私が付き添います。」 諒佳は即座に宣言していた。このまま家に帰っても問題は何も解決していない。亜紀が熱を出した理由がこの事件であることは明白だ。きちんと熱が下がるまで病院で寝ていた方がいいに決まっていた。ふたりは入院の手続きに事務カウンターへ向かった。  ガランとした待ち合いロビーに一組の若い夫婦がいた。ふたりは会計を待っているようだ。既に診療時間は終わっており会計が済んでいない患者が他に二、三人いるだけだった。賢治と諒佳は入院受付で必要事項を書き込んで金を払った。書類が処理される間、二人は長椅子に腰掛けた。するとさっきの若い夫婦が側へ近寄ってきた。 「失礼ですが、CAP51番館にお住まいの方では?」 男の方が声を掛けてきた。 「え?」 賢治が怪訝そうな顔をする。 「ああ。失礼しました。城ノ内と言う者ですが、CAP51番館の5階に住んでいます。以前お二人をお見かけしたことがありましたものですから・・・。確か小さな女の子がいらっしゃったのでは。」 城ノ内と名乗る若い男はそう説明した。 「5階に? いや私たちはあなた方を知りませんが・・・。」 賢治が言うと男も連れの女も満面の笑みを浮かべて、 「いや、申し訳ありません。別に覗き見してたというわけじゃないんですが、何かお取り込み中のようだったのであの時はお声掛けしませんでした。最近越してこられた方ですよね?」 と男の方が続けた。 「あの私は、505の城ノ内美佐絵と申します。彼は私の夫で和夫。私たちは一年前に入居しました。今後は宜しくお願いしますね。それで、もしかして娘さんがどこかお悪いんですか?」 今度は若い女の方がさも心配そうな顔をして話し掛けてきた。 「ええ、そうなんです。急に高熱が出て・・・。」 諒佳がまた涙ぐみながら城ノ内美佐絵に答えていた。 「そうですか。ご心配ですねえ。」 美佐絵が言う。  そこで入院受付の事務員から呼び出された。小走りに受付カウンターへ行く高山夫妻。後ろで城ノ内夫妻がその様子を目で追っていた。お互い何か目配せをしながら。賢治と諒佳は城ノ内夫妻に軽く会釈すると処置室へ取って返した。 「ママ~。」 亜紀がベッドに起き上がっており、諒佳の顔を見ると叫んだ。諒佳は亜紀を抱きしめるとボロボロ涙を流していた。亜紀の熱はすっかり下がっていた。だから病室には歩いて行くことが出来た。最初入院を嫌がった亜紀だったが諒佳と一緒だと知ると逆に大喜びしていた。  賢治はそんな二人に別れを告げると再び駅へ向かうことにした。我がCAP51番館は駅の反対側だ。駅まで歩いて17分。ここからだと25分と言うところか。賢治が閉まってしまった正面玄関の代わりに救急外来入口を見つけて外へ出るとそこに城ノ内夫妻がいた。 「あら、高山さん。」 美佐絵が気さくに声を掛けてきた。賢治はどうも、と素っ気なく返す。すると城ノ内和夫が先に駅へ向かって歩き出した。 「いってらっしゃい。」 後ろから声を掛ける美佐絵。和夫はその声に前を向いたまま片手だけ上げて応えていた。 「今からまた仕事なんだって。やだな、働き方改革って知らないのかしらね。」 美佐絵はそう軽口を叩くと救急に偶然入ってきたタクシーに手を挙げた。 「さ、急いで、急いで。」 美佐絵はいきなり賢治の腕を取ると小脇に抱えるようにして引っ張った。 「すいません。迎車なんです。」 盛んにドアをノックする美佐絵に運転手が渋々窓を開けると言った。 「ええ? どうしてえ? いいじゃないの。」 そう言い立てる美佐絵を賢治はなだめると駅に向かってゆっくりと歩き出した。 「51番館まで歩くんですか? 30分くらい掛かりますよ。あのマンション駅から遠いし。」 美佐絵は不服そうにそう言いながらもケラケラ笑っていた。  市民総合病院から駅までは10分ほどだ。駅前は駅ビルをはじめ多くの飲食店ビルや小売店のビルが林立し、たくさんの人で賑わっていた。美佐絵は振りほどかれた自分の腕を持て余しながら賢治に絡み付いていた。 「ねえ、一杯だけやっていきませんか?」 ビルの1階焼き鳥店の前で美佐絵が言った。 「もう家まで17分ですよ。帰りましょう。」 賢治が言う。 「いや。一杯だけ。」 どういう性格なんだ、と賢治は思った。そう言えばこの城ノ内美佐絵というのは一体幾つなんだろう。諒佳よりは若そうだったが、それにしても人妻とも思えない態度だった。 「お願いします。今日ね、実は不妊治療の相談会に出たんですよ。あの病院では不妊治療は出来ないんですけど、始めるなら紹介状を書いて貰えるんです。でも、うちの亭主がごねてて。二言目には仕事が忙しいって。もっと二人で遊ぼうって。あの人まだ子供なんだよ。赤ちゃん欲しいと思ってないんだ・・・。」 美佐絵の突然の告白に賢治はどう返していいか返答に困ってしまった。 「そんなところに高山さんご夫妻がいたから。私たち高山さんに小さな娘さんがいるのを見て知ってたから。私もあんな子が欲しいなって。」 美佐絵はそこまで言うと小指で目頭を押さえた。が、それでも賢治はここで美佐絵と飲む訳には行かないと思った。 「だって、まだお二人ともお若いでしょ。まだまだこれからですよ。」 賢治はそう相槌を打ってマンションへ向かって歩き出した。美佐絵も渋々付いて来る。  黙ってしばらく歩くと小さな児童公園が見えてきた。公園の前にさしかかると美佐絵が鼻に掛かった声で賢治に話し掛けてきた。 「少し休みませんか?」 美佐絵は賢治を公園のベンチに誘い込もうとする。 「マンションはすぐそこですよ。さ、行きましょう。」 賢治は美佐絵を無視して先へ進んでいった。仕方なく美佐絵は賢治の後を歩いて行く。 「私、私と和夫さんね、最近うまくいってないんです。ギスギスしちゃって。原因はやっぱり不妊治療のことかしら。私がこの相談会に勝手に申し込んだから。」 美佐絵が賢治の背中からボソボソと話した。 「夫婦なら喧嘩もしますよ。元々他人の二人なんだから。お子さんのことはよく話し合うことですね。」 賢治が素っ気なく一般論を言う。 「そりゃ、そうなんでしょうけど。価値観て言うのか、そういうのが違うなあって思えちゃって・・・。」 すぐに美佐絵が反論してくる。思わずそれに反応する賢治。 「だって、価値観が合うから結婚したんでしょ? よく話せば分かり合えるって。」  CAP51番館が見えてきた。 「今日だって、昼間私に付き合うことで今晩の飲み会を正当化してるんです、あいつ。銀座か何かのホステスに入れあげてて、彼女に会いたいから不妊治療相談会に参加して・・・。」 美佐絵はなおも言い募るが賢治は黙って51番館のエントランスを通った。ロビーを抜けて郵便受けを機械的に確かめる。 「じゃあ、私は階段で行きますから。」 そう断ると淋しげな表情を見せる美佐絵を置いて賢治は階段を上がりだしていた。エントランスにもロビーにもやはり誰もいなかった。だが、あんな夫婦者が住んでいたとは、賢治は少し不思議な気がした。美佐絵はエレベーターに乗ったらしくもう姿が見えなかった。専業主婦? じゃあ和夫はいったい何をしているのか。あの若さでここの家賃が払えるのは相当な稼ぎがあるのだろう。それとも親掛かりか。部屋に入っても賢治はそんなことを考えていた。  カップラーメンを前に考え込んでいる時インターホンが鳴った。食事がまだだったことに気が付くと急に空腹感が襲ってきた。だが何かを作って食べようという気にはならなかった。だからカップラーメンを開けたのだ。来訪者は美佐絵だった。 「やっぱりねー。」 部屋に上がり込むとダイニングテーブルの上を見て美佐絵は言った。 「何が?」 「晩ご飯まだだったんでしょう?」 「それは・・・。」 口籠もる賢治を見て笑う美佐絵。その笑顔に屈託がない。 「何か作るわね。冷蔵庫の物使ってもいい? そしたら、出来るまでそれで一杯やってて下さい。」 美佐絵はそう言うと冷蔵庫から缶ビールを1本取り出すとグラスと共にテーブルに持って来た。 「ありがとう。」 賢治も素直に礼を言う。美佐絵は漬物を持って来たのだった。自分で漬けた自家製だった。だけど肝心のメインの料理がないことを知って調理を申し出た。キッチンを他人に使わせることに賢治は何も不快感を感じはしなかった。もともとここは賢治の領域ではなかったからだ。だが妻の諒佳にとってはそうでないかも知れないとは考えが及びもしなかった。  美佐絵は背が低い。150センチをちょっと超えたくらいか。そんな美佐絵がテキパキ動く様は見ていて気持ちよかった。賢治がビールを飲みながら待っていると早々に料理が出来上がってきた。中華風の野菜炒めに生姜焼き、そして味噌汁に土鍋で炊いた飯だ。美味かった。賢治が食事をする向かいに座った美佐絵はニコニコしながら黙って眺めていた。そんな美佐絵の姿に賢治も少し気を許す。 「城ノ内さんはこのマンションの他の住人の方を知ってます?」 賢治は聞いてみた。 「他の住人?」 そう言って美佐絵は小首を傾げた。その姿はまるで昭和のアイドルタレントのようだ。もっとも昭和のアイドルを賢治は知らないのだが。それでも賢治はぷっと吹き出すと和やかに言った。 「いや僕たちここに入居して3ヶ月になるけど他の住人の方にお会いするの城ノ内さんが初めてなんですよ。」 「そうなんですか? 確かに生活習慣の違う人が多いかもね。それだと会わないかも。それに恥ずかしがり屋さんが多いから。」 「恥ずかしがり屋さん?」 その言い方も何やら昭和っぽい。賢治は笑いを堪えるのに苦労した。 「みなさん、ご自分たちの生活が大事ですからね。余りご近所付き合いみたいなことはしません。賢治さんだって朝早くから夜遅くまで会社なんでしょ? その時間帯に出掛けない人だと全然会わなくても不思議じゃないですよね。」 美佐絵はいつの間にか賢治さんと呼んでいた。その違和感に気が付いたのが偶然なのか、必然なのか。賢治は急に諒佳のことが気になりだした。
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