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第2章 新しい生活
午後8時。帰宅した賢治に諒佳がビールを注いだ。
「あのね、今日住人に会ったわよ。」
諒佳がそう言いながら夕食を温める。賢治の前には煮込みとチーズだ。妙な取り合わせだと感じたものの賢治は何も言わなかった。両方とも好きなものだし、賢治はそう考えて取り合わせについては目を瞑ることにした。
「正確に言うと住人じゃないかも知れないけど。」
諒佳はまだその話を続けていた。
「管理人さん。」
「管理人? 全然住人じゃないじゃん。」
「そうなんだけど。おばあちゃんなのよ、管理人さんて。」
諒佳は話したくて仕方ないようだが、管理人はいて当たり前だと賢治は思った。常駐していると不動産屋が言ってたんだから。
「2階の廊下を掃除してたのね。それで偶然出くわしたんだけど。すんごく驚いてんの。私たちが引っ越して来たこと知らなかったのかしらね。」
諒佳は暖めた料理と一緒に飯を茶碗によそって並べる。味噌汁も出てきた。まだビールは半分以上残っている。煮込みも、そしてチーズも。
「で?」
賢治が上の空で諒佳に話を促す。
「管理人さんね、この近くの別のマンションに住んでるんですって。自転車で通ってるんだって。もう随分なお年に見えるんだけど、凄いわね。」
諒佳はそれだけ言うと子供部屋に亜紀を見に行ってしまった。妻はまだ28歳、どことなく子供っぽさを賢治は感じている。そして誘われた銀座での接待に自分も加われば良かったと後悔した。どうせ部長のことだから最後はアリュールのはずだ。いわゆる銀座のクラブ。着物やきわどいドレス姿の女性たちと飲んだ方がいかに楽しかったか・・・。
戻って来た諒佳に賢治は慌てて妄想を中断した。
「で、肝心の住人には会ったの?」
すると諒佳は急に真面目な顔になって目を伏せた。
「お隣さんには会えたの?」
賢治が追い打ちを掛けると、諒佳は黙って首を横に振った。
「管理人さん以外誰にも会わなかったわ。202の方にも会えなかった。呼び鈴を鳴らしても出てこないみたいで・・・。」
「出てこない? どういうこと?」
「あのね、声がしたのよ、中から。お子さんの声だと思うんだけど。でも誰も出てこないの。」
またその話題に戻ってしまった。賢治も引っ越してきて3日、朝も夜も誰とも出会わないのが気になっていた。ただ、今朝は出て行くちょうどその時向かいにあるマンション駐車場の車が一台、出ていくのを見た。乗っている人は見えなかったのだが、住人の車に間違いなかった。どういうことなんだろう。誰にも会わないって。本当に誰も居ないマンション? だが、諒佳は202の中で子供の声がしたと・・・。
「204の方は?」
空いたグラスに諒佳が自分は立ったままビールを注いだ。座れよ、と心の中で賢治は叫ぶ。
「3回訪ねてみたけど、いないみたい。」
諒佳がそう答えた時、バタバタと走り回る音が聞こえた。音と言うより振動が伝わってきた感じだ。子供の足音に思えた。
「隣だな。」
と賢治。
「子供が駆け回ってるみたい。うちの亜紀もやるけど、はしゃいでるのかしら。」
「やっぱり住人はちゃんといるんだよ。たまたまタイミングが合わなかっただけじゃないかな。」
そう結論付けた賢治は今度は振動の伝わり易いマンションが気になり出した。不動産屋の営業マンも言っていたが築25年の弱点がこういうところにあるらしい。つまりもともと防振動構造でないビルにクッションを入れたフローリングを貼った部屋はどうしても振動が伝わるのだと。最近のマンションだとこういうことは滅多にないそうだ。やはりいずれは新築のマンションを買おう。だが、誰のために・・・。賢治は一気に残りのビールを流し込むと飯に取りかかった。やっぱり銀座だったかな。越したばかりで荷物も片付いていない。接待の参加を辞退して帰ってきたのは諒佳のためだった。
諒佳はタオルドライした髪をまとめるとベッドに潜り込んできた。それを抱き留める賢治。ちょっとハーフっぽい容姿の諒佳だが京女である。もっともごく小さい頃に東京へ移ってきてしまったため訛りはない。とはいえ京都出身の母親の影響かたまにアクセントがちょっとおかしなことがあった。そこが可愛いのだが、今はそれが亜紀に伝染って学校でいじめられないか、それが心配だった。
「あら?」
ネグリジェを脱がしたところで諒佳が声を上げた。
「また走ってる。でも、もうこんな時間なのに。まだ起きてるのかしらね。」
バタバタバタ、音とも振動とも判然としない。音も振動のうちだ。だけど確かにフローリングの床をバタバタと誰かが、恐らくは子供が走り回っているようだった。
「ちょっと響き過ぎるな。やっぱり築25年はこんなものかな。」
賢治が呟くと急に諒佳は豊満な乳房を賢治の顔に押しつけてきた。もごもごと声にならない声を上げて藻掻く賢治。こいつなら銀座の店でも通用するよな、賢治はそう考えながら今度は諒佳の乳房を乱暴に掴み上げると揉み拉いた。
「ああ。」
諒佳が早くも声を出し始める。賢治も本気モードに突入する。ところがまた足音が・・・。諒佳の声も向こうに聞こえたりしないよな、賢治は不安になった。
数日後高山賢治は例の不動産屋へ平井を訪ねていた。
「どうなさいました? 高山様。」
応対に出てきた平井が満面の笑みを浮かべる。営業としては一流だな、賢治は思った。だが、店の奥、ここの店長らしき男が厳しい目で平井を見ているのに賢治は気が付いた。
「いや、あの。僕は勘違いだと思うんだが、家内がね、どうしても変だって言うもんだからね。」
何をどう説明したらいいのか迷いながら賢治はつかみ所のないことを話し出した。
「ええっと、CAP51番館の世帯数ですか?全室を我が社で扱っているわけではないんですが、情報は共有しています。あのマンションの空室は高山様が入居された部屋が最後のはずですよ。その後空室が出たという情報はありませんから。当社のHPにもCAP51番館の情報はもう掲載していないはずです。」
笑みを絶やさず平井は説明した。
「つまり今現在は満室・・・。」
「そうですね。」
「32世帯だっけ?」
「はっきりと覚えていませんが7階建てですから、それくらいだと思います。どうなさったんですか?」
平井に聞かれて賢治は返答に迷った。だがすぐに訪ねた意味を説明した。妻諒佳のことを言い訳にしているがとりもなおさず賢治自身が不審に思っているからだった。
「誰にも会わない?」
営業マンは賢治の答えを聞くと満面の笑顔のママ噴き出した。
「いや、失礼しました。マンションで誰にも会っていないとおっしゃるんですか?」
「まあ、僕は朝は比較的早くに仕事に出てしまうし、夜も帰りは大体8時か9時なんで誰にも会わないという可能性はあるんだが、一日中家にいる家内が誰にも会っていないというのは・・・。そう、両隣の部屋も何度呼び鈴を鳴らしても出てこないんだそうだ。でも夜なんかバタバタ歩き回る音がしてる。」
平井は漸く賢治の前の席に着いた。少々面倒なことになっていると感じたのである。まだ入居して2週間だ、ここでトラブルはごめんだった。
「CAP51番館にどういう方がお住まいになっているかは存じ上げません。ですが、一般論を申し上げれば、あのクラスのマンションではいわゆるご近所付き合いを嫌われる方は多ございます。高山様の両隣の方もそういう方なのではないでしょうか。」
「近所づきあいをしたくないと。」
怪訝そうに賢治は営業マンの顔を見た。
「以前にも申し上げましたが、自分の生活に他人が入るのを嫌う傾向にあるんです、あのクラスのマンションでは。一度お隣さんだからと気を許せば、今度はずかずかと入り込まれるんじゃないか、そう恐れていらっしゃるとも考えられます。」
「そんな、ずかずかなんて・・・。」
賢治がちょっとむっとしたように言葉を挟んだ。が、それを無視して平井は続ける。
「今、人がマンションに住まう理由は鍵ひとつで外界から遮断でき、面倒で余計な付き合いをしないで済むからなんですよ。CAP51番館の家賃17万5千円、いえ管理費込みだと18万2千円を払える方ってエリートじゃないですか。」
「エリートなんて、そんな・・・。」
「誰と会おうと会うまいと、高山様の生活の支障はありますか? 確か娘さんが幼稚園ですよね、そちらでお友だちは出来たんではないですか? あとママ友はいかがですか?」
平井の言う通り生活環境は申し分なく、亜紀の通い出した保育園では亜紀も諒佳も友達が出来たと話していた。ただ、あのマンションの住人とは・・・。
平井に電話が入ったところで賢治は切り上げた。確信は、CAP51番館が妖怪マンションや幽霊マンションなんかじゃないよね、と言う質問なのだ。そんなこと真面目に聞けるわけない。実際マンションはかなりよく振動が伝わり人の気配で満ちている。ネットで調べると古いマンションだと鉄筋コンクリートでも振動はあちこちに伝わるそうだ。また特に窓ガラスなど音が漏れることもよくあるという。つまり実際に住人はたくさんおり、実体のないものが棲んでいるわけではないのは確かだった。
「今日ね、令ちゃんママから聞いたんだけど・・・。」
諒佳が話し出した。相変わらず片付けものと平行して晩酌の相手をする。賢治はゆっくりと座って話をしようと言いたかったが止めた。
「令ちゃんママ?」
「橋本令ちゃんのママ。亜紀のお友だちのね。」
「亜紀はみんなと仲良くやってるのか?」
「そうね、保育士さんにもよく懐いているようだし、お友だちもたくさん出来たみたいよ。特に令ちゃんとは仲良しみたいで。」
普段賢治は中々亜紀と話をする機会がない。こうして諒佳から様子を聞くことが貴重だった。
「諒佳、一杯付き合えよ。」
やっと賢治は意を決して諒佳に座るように促した。もっと亜紀の様子を聞きたかった。
「あら。」
諒佳は頬を染めて賢治の向かいに座る。グラスにワインを注ぐとカチンとグラスを当ててきた。そうじゃなくて、亜紀の話が聞きたいのだ。そして諒佳が話し出したことは、亜紀のことではなくまたこのマンションについてだった。
「あそこの保育園に通ってる子でこのマンションの子はいないんですって。令ちゃんママが言うにはこのマンションの人たちは向こうの若葉幼稚園に通ってるんじゃないかって。亜紀は珍しいみたい。ハイソなマンションの人たちはこの保育園には来ないって。ハイソだなんてやだわ、世間はそう思ってるのかしら。」
諒佳はそう言って笑った。悪い気はしていないのだろう。賢治も平井にさんざ持ち上げられて納得してきたのだ。
「それでね、令ちゃんママいわくこのマンションて人気が少ないって。ずっと前かららしいわよ。」
「人気が少ない?」
「ええ、出入りも少ないし、騒いだりもしないって。人があまりいないみたいだって。でも、洗濯物をベランダに干していたり、そう布団を干している人もいるからいないってことはないみたい。」
それがハイソな住人たちだから? 上流階級の人たちは外界との繋がりを嫌い、常に物静かに暮らしている? そんなバカな。
「令ちゃんママはもう少し先へ行ったマンションに住んでるんだけど、あそこって軽量鉄骨製よね。不動産屋さんのHPで見たわ。マンションと言うよりアパートなのよ。で、そういうところと私たちは違うってわけ。」
30代前半で月20万円の家賃を払ったら普通は手元にいくら残るんだろうか。手取りで10万も残らないという人もいるだろう。だが、賢治は20万近い残金があった。しかも実際は10万を義父から貰っており家賃を払った上で30万円の生活費がある。家族で海外旅行の計画も立てられるわけだ。賢治はAI関係のエンジニアだった。会社は順調に業績を伸ばしている。AIのエンジニアは社内でも優遇されているのだ。
「だからね、このマンションの住人は他人と接触したくない人たちがいっぱいいるってことみたいなの。」
諒佳がワインを飲み干して言った。誰にも会ってないというのを上流階級だからだという理屈で納得したようだ。頭悪いのは昔からだな、賢治は思った。こいつの魅力は身体だけだ・・・。ま、それも大事だが。もともと賢治は頭のいい女性が好きだった。尊敬できる女、会話の端々に知性を感じさせる女、そういう女性を好ましく思っていた。諒佳と結婚したのは若気の至り、肉体に溺れた、言い方は色々あるが勢いだったとしか言いようがない。だから娘の亜紀は母親に似ないで頭のいい女性に育って欲しいと切望している。目指すのは医者だ。
この会話の後、幽霊マンション、妖怪マンションのことは二人とも言わなくなっていた。他人に言ったところでまともに取り合って貰えるとは思えなかったし。そして賢治もマンションの管理人の老婆に会った。だが、お隣のことを聞いても個人情報ですからと答えて貰えなかった。それはそれでしっかりした管理人ではある。勝手によその家庭の話をべらべら話されてはたまったものではない。
その後新しいプロジェクトが動き出し、賢治はその責任者に選ばれた。自分の仕事だけではなく、プロジェクト全体の進捗を管理しなくてはならなくなった。若い担当者のサポートも必要だ。だが、やりがいもあり賢治は仕事にのめり込んでいった。帰宅は遅くなり賢治は納戸に簡易ベッドを入れた。諒佳が先に眠っている時間帯、賢治は帰宅するとダイニングで妻が作り置いてくれた食事を温めて食べ、亜紀の顔をそっと覗き見て、納戸の部屋で眠るようになった。こうしてCAP51番館へ来てから3ヶ月が瞬く間に過ぎていった。
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