第3章 超常現象

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第3章 超常現象

 その夜高山賢治は佳境を迎えたプロジェクトの中間報告書を仕上げ、自宅に帰ったのは午前0時を過ぎていた。コンビニの弁当で夕食を済ませていた賢治は風呂に入ると娘の顔を見ることもなく納戸の部屋へ入った。すっかり陽が落ちるのが早くなりエアコンのない納戸部屋はかなり寒かった。簡易ベッドに倒れ込むようにして横になると頭から布団を被ってあっという間に眠りに落ちた。とにかく疲れ切っていたのだ。  午前3時過ぎ賢治は騒がしい気配に目を覚ました。どこかでたくさんの人たちが騒いでいる。最初TVでも点いているのかと賢治は思った。納戸部屋にはTVはなかった。ラジオなんかも持ち込んでいない。でも、この騒ぎは一体何だ。わーわーという民衆の歓声? 弾劾を訴える市民の声? それは映画なんかで見る民衆蜂起のシーン、たくさんの人々が何かを口々に唱えながら拳を振り上げているような・・・。そんな喧噪がすぐ側でしていた。賢治は渋々布団から顔を出す。寒い。そして部屋はいつもの部屋だった。何も変わったことはない。窓が開いていることもなかった。だけど、民衆の叫びは聞こえていた。遙か彼方の声にも聞こえ、いやもっと近くでただボリュームを下げただけにも聞こえた。賢治はベッドに起き上がると辺りを見回してみた。当然だが、何もない。いつもの納戸だ。 賢治は脱ぎっぱなしの上着を羽織ると静かに部屋を出た。どこから聞こえてくるのだろう。ワーワーというたくさんの人々の声が聞こえていた。やはりTVの深夜映画かなんかじゃないか、賢治はそう確信した。となれば諒佳のところか。夫婦の部屋には20インチのテレビを入れてある。最近はそれを妻と二人で見ることも滅多になかったが、きっと諒佳がTVを見ながら眠ってしまって、深夜映画が流れているのだろう。賢治はそろそろと部屋のドアノブを捻ると隙間をつくった。しかし、TVは点いていなかった。諒佳が軽い寝息を立てながら眠っている。賢治はそっとドアを閉めると今度はリビングを覗いた。TVが点いているはずもなく、それ以外にも異変などありはしなかった。  最後に賢治は娘の部屋を覗く。娘は畳の部屋に布団を敷いて寝ている。賢治はそろりそろりと布団に近づくと膝を突いて娘の顔を覗き込んだ。 「亜紀!」 布団はもぬけの殻だった。亜紀がいない。賢治は寒さと相まって震えが来るのを禁じ得なかった。亜紀はいったい・・・。 「亜紀! 亜紀!」 賢治は声に出して娘を呼んだ。押し入れを開けてみたがいない。賢治は子供部屋を出ると諒佳の元へずんずん歩いた。ドアを開け、 「諒佳。」 声を掛けた。やや怒りを含んだ言い方だった。だが、妻は何事もなかったように眠り込んでいる。賢治は布団を剥ぎ取ってやろうと手を出した。と、そこに亜紀がすっぽり収まっていたのだ。 「亜紀・・・。」 ホッとして賢治は娘の寝顔を見詰めた。すると娘の瞼が開いて賢治の顔を見据えた。 「パパ・・・。」 「ここにいたんだね、良かった。パパびっくりしちゃったよ。」 賢治は優しく娘の頭を撫でた。 「あのね、怖い夢を見たの。夢じゃないくらいに怖かったの。」 亜紀は父親に説明を試みた。だが夢の話は今はどうでもいい。賢治は黙って頷くと頭を撫で肩が出ないように布団を軽く引き上げた。 「ほんとなのよ、とっても怖かったの。あのね、あのね、パパとママが鬼多郎に食べられちゃうの。ああ、怖かったあ。」 「分かった、分かった。分かったから今は寝なさい。おやすみ。」 賢治は亜紀の口に手をやると言葉を遮った。そして素早く部屋の外に出た。結局諒佳は1回も目覚めはしなかった。  賢治は念のため再びリビングへ戻ると書斎部屋を開けてみた。ここは自分の書斎、趣味の部屋のはずだったが、今は諒佳が始めた陶芸の材料と作品があるだけだ。賢治もプラモデルなど作っている暇はなくなっていた。異変はなかった。亜紀のことでホッとしたせいか、単に幻聴を聞いたのかも知れないと思い始めていた。賢治は納戸に戻って寝直すべく廊下を急いだ。その時玄関の覗き穴から強烈な光が差し込んできた。レンズを通過した光は丸い光跡を賢治のすぐ左の壁に結んだ。郵便受けからも白い光が漏れている。だが何の物音もしない。ただ、強い光が一瞬差し込んできたのだ。それは太陽のような自然光ではなく、言ってみればサーチライトのような冷たい光だった気がする。 「何だ? 今のは。」 だが玄関を開けて確かめてみようとまでは思わなかった。光は一瞬のことで既に消えていたから。早く眠りたいと思った。明日も忙しいのだ。それで賢治は今見たことを不問にして納戸へ戻った。そしてベッドに入る。するとまたあの群衆の声のような音が聞こえてきた。  「何だいったい。俺の耳のせいか?」 賢治は自分の両耳に指を突っ込んでみた。耳は痛くもないし、きちんと機能しているようだ。指を入れている間シューシューという音が聞こえ、指を抜くと・・・またあの音が聞こえてきた。たくさんの人たちの声だ。何やら大きな声で口々に叫んでいるようだった。そしてそれはクローゼットの中から聞こえていた。今度ははっきりと分かった。クローゼットの中から聞こえてくる。あり得ない話だが、納戸のクローゼットの中で暴動が起こっている。賢治は一瞬躊躇したが、一気にクローゼットを開け放った。そこには当然のことながら何も存在しなかった。いや、恐らくは諒佳のものと思われる衣類の詰まった段ボール箱が積まれていた。  この現象は次の夜もその次の夜も続いた。そして両親が何者かに食べられる夢も亜紀を毎晩怖がらせていた。 「どうしちゃったのかしらねえ。」 諒佳が朝のテーブルで憔悴した二人の顔を見ながら言った。 「だって、同じ夢を見るんだもん。ううん、ううん、あれ夢じゃないわ。だって本当のことみたいだったの。」 「そんな。だって毎晩ママと一緒に寝てるじゃない。」 諒佳だけはぐっすり眠り、何も見てないし感じていないのだ。亜紀はそう言う母親に反論する情報がなかった。だから黙って俯いてしまった。 「あなたは大丈夫なの? やっぱり何か声が聞こえるの?」 賢治は黙って頷いた。 「病院行ってみたら?」 諒佳が言う。自分の言うことを幻聴だとでも思っているようだ。そしてあの強くて冷たい光、最初の日は玄関ドアの向こうからだったが、次はバルコニーからカーテン越しにリビングを真昼のように明るくした。次の日には無人のバスから眩い光が・・・。だが、どれも諒佳は当然見ていない。 「ねえ、少し仕事休めないの?」 諒佳の心配そうな顔が賢治には逆に腹立たしかった。だが、珈琲を啜りながら賢治は考えてみた。実際今の賢治はプロジェクトリーダーとして極めて多忙であり、プレッシャーも大きい。毎晩遅く、寝不足であることも事実だった。住環境が変わり、仕事環境が変わり、事実プロジェクトは問題が山積していた。精神的に参っているというのは確かなのである。だがそれで精神が病んでいる? そんなことはあり得ないと思った。そして亜紀と同じくあの群衆の叫びみたいな声は幻聴などとは到底思えないリアルさがあったのだ。  亜紀を保育園に送って部屋に帰って来ると諒佳は変な違和感を感じた。あれ? 部屋を間違った? 思わず玄関に戻るとドアを開けて部屋番号を確認したが203で間違いない。第一自分の持っている鍵でドアを開けたのだから他人の部屋であるはずはないのだ。だけど、廊下を歩いてリビングへ入るとまたあの違和感が襲った。 「何?」 諒佳はぐるぐると部屋を歩き回って違和感の正体を探そうと試みた。何か変なことはないか? だが、リビングはいつものリビングで変なところなどあろうはずもない。 「何だろう?」 諒佳は置いてある物を一つ一つ確かめていった。すぐ右に電話台だ。いつもの電話台。ここへ来るのに買い換えた電話台だった。乗っている電話は前のマンションから持って来た物。FAX機能付きの高級品。そして急に買った観葉植物はパキラ、それもちょっと大きくてお高かったのだ。前の部屋から持って来たソファとテーブルのセット。ずいぶん傷んでいて買い換えたいと思っている。そのテーブルの上には血圧計があった。血圧計? 何でそんな物がリビングのテーブルに? 諒佳は心臓がドキドキしだすのを感じた。血圧計なんて置いてないはず。血圧計は、血圧計は、そうだまだ引越しの荷物の中のはずだった。でも見覚えのある血圧計だった。確かに以前から持っていた血圧計。諒佳は自分の血圧が上がり出すのを意識した。で、我に返る。これは自分で出したのだった。そうだ。昨夜賢治さんの健康管理をしようと荷物の中から探し出して・・・いや、そうじゃない、血圧計はダイニングテーブルの上に置いておいたのだ。今朝賢治さんが測るように置いたのだった。結局賢治さんは計らずに朝食となった。その時これをどこに片付けたんだっけ? 諒佳は混乱していた。記憶が繋がっていないと感じた。どういうことだろう? それが違和感? 血圧計は賢治さんがここに置いた、それに違いないと諒佳は思った。だが賢治は血圧計を運んでいない。ダイニングテーブルの端に寄せて食事が始まったのだ。 諒佳はソファにドスンと腰を下ろした。そして目を閉じる。ふっとため息をついた。 「どうかしてるわ、違和感なんて。何も変なことなんてありゃしないわ。私までどうしちゃったんだろう。」 心の中をそう整理して諒佳は静かに目を開けた。そのまま頭を後ろに倒す。ところが視界に入った天井が真っ赤に染まっているではないか。諒佳はぎゃっと叫ぶとソファから転げ落ちた。天井一面が血のような赤い色になっていた。壁はいつものオフホワイトだが、天井が赤い。天井もオフホワイトなのだ。それが、それが、赤く・・・。赤い天井に照らされて白い壁がピンクがかった色に変色して見えた。それこそが違和感の正体だったのだ。赤い色に照らされたリビングは全体的に色が変わり、置いてある小物一つ一つが微妙に色調が違って見えたから変な違和感を感じた。でも、なぜ天井が・・・。諒佳は管理会社へ連絡を取ろうとして気を失ってしまった。 しばらくして目覚めた時にはリビングはいつものリビングに戻っていた。天井も壁も白い部屋に。ただ、血圧計がダイニングテーブルの上に乗っていたことに諒佳は気が付かなかった。  週末、珍しく家にいる賢治とともに家族は夕食を共にした。不可解な現象は家族に暗い影を落としていた。出来事の不気味さだけでなく、家族の間に疑心暗鬼をもたらしていたのだ。つまり、それぞれの現象は本人だけしか経験していなかった。夜中の強い光や群衆の声を聞くのは賢治だけであり、天井の色が赤くなる現象を見るのは諒佳だけだった。そして両親が怪物に食べられる夢を見るのはもちろん亜紀だけだ。それで、お互いにそんなバカなことと思う。最初諒佳の告白を聞いた賢治は夕焼けで白い天井が赤く染まったんだろうと言ってのけたのだ。だが、午前中の出来事だった。一方諒佳は諒佳で賢治の見聞きする幻はやはり働き過ぎのせいだと考えている。まして亜紀の夢は所詮子供の夢だからという認識でしかなかった。強い絆で結ばれたはずの家族3人は互いに自分を信じてくれない家族に失望し、同時に精神的な問題ではないかと心配していた。  そんな時に亜紀が保育園で奇妙に符合する情報を得てきた。諒佳の作ったカレーを食べ始めると早速亜紀が話し出した。 「あのね、今日令ちゃんに聞いたんだけどね、この前このマンションが赤く光っていたんだって。令ちゃんのおばあさんが見たんだって。」 「赤く光っていた?」 諒佳が聞き返した。 「うん。おばあさんが今遊びに来てるんだって。そのおばあさんがあそこのマンションの部屋がいくつか赤くなっていたって。」 たどたどしい言葉で伝え聞いたことを話す亜紀。今度は賢治が問い質した。 「それって何時頃のことだって?」 だが、亜紀の情報には時間帯のことまではなかった。 「夕方で、夕日に窓ガラスが赤く光ったんじゃないかな。」 賢治が言った。すると諒佳が亜紀に聞く。 「このマンション全体が光ってたの? それともどこかの部屋だけ?」 「そんな難しいこと聞いても分からないよ。」 亜紀の返事を待たずに賢治が諒佳に言った。 「あのね、マンション全部じゃなくていくつかの部屋だけだったみたいだよ。それでね、おばあさんはいつも夜中におトイレに起きるんだって。おトイレの窓から今度は白い光が出てるのを見たんだって。」 亜紀が続けると今度は賢治がこの情報に食いついた。 「なんだって? 白い光だって?」 「うん。夜中にね、おトイレの窓から外を見ると白く光る部屋があったって。夜中なのに何だろうなあっておばあさん思ったって。」 「やっぱりな。それはどこが光ってたって言ってたんだ?」 賢治が亜紀に問いかける。 「う~ん。わからない。」 亜紀が答えた。賢治は落胆した。その表情を見ていた亜紀は自分のせいでガッカリさせてしまったことを悲しく思った。 「だが、待てよ。」 賢治が言い出した。考えてみればこれは初めての第三者による証言だった。何しろ未だにこのマンションの住人とは話しもしていないどころか見掛けたこともなかったのだ。諒佳の経験と自分の経験を全く違うマンションの住人が見ていた。これはやはり自分たちの精神疾患や幻影みたいなものではないのかも知れない。 「私の怖い夢は?」 亜紀が聞くが、夢は夢、そう考えるのが妥当なことに両親とも思えた。正直お互いにギスギスしていると感じていたのだ。不仲ではないまでもギスギスした関係が亜紀に伝わって変な夢を見させている、そう考えるのが妥当だろう。諒佳も賢治もそこは反省しなくてはならないと思っていた。  その時異変は起こった。カタカタと部屋の小物が音を立て、部屋が揺れ出した。 「地震だ!」 諒佳が叫んだ。が、やがて部屋中に大群衆が騒ぐような大きな音が響きだした。知らない言葉で口々に大声で話している。何十、何百、いや何千という人の声のようだった。大観衆は耳をつんざく大音量となって3人に迫った。と、同時に3人はテーブルごとぐるっと回転するような感覚に襲われた。 「なんだ、どうした?」 「パパ、ママ、怖い。」 亜紀は隣に座る諒佳の手を握った。ふと見上げた天井は真っ赤に染まっていたのである。 諒佳も思わず叫び声を上げた。 「こっちへ。」 賢治はダイニングテーブルを立つと諒佳と亜紀を引っ張って部屋の隅に移動し、しゃがみ込んだ。小刻みな振動と耳を塞ぎたくなるような大歓声、そして真っ赤に染まる天井。賢治はカーテンを閉めた窓ガラスの外から強い光が入ってきていることに気が付いた。3人は手を繋いでリビングの隅でうずくまった。どれほど続いたのか、よく分からない。それ程長い時間じゃなかったとは思うが、やがて音も振動も収まって辺りは静かになった。ゆっくり顔を上げた3人は天井も元の色に戻り、あれほど揺れたと思ったのに何も壊れていないことを発見した。 「何なの、今のはいったい?」 賢治はテレビを点けた。が、地震速報などはどの局も報じていなかった。いったい今の現象はマンション全体に起こったことなのか、それとも・・・そう考えて賢治は思わず身震いした。この部屋にだけ起こった現象・・・超常現象・・・なのだろうか。  夫妻は玄関を出ると202の呼び鈴を鳴らし続けた。だが、誰も出ては来なかった。同様に204も何の反応もない。ただ、相変わらず誰かがいる気配はあった。3人は階下のロビーへ降りてみた。これだけの騒ぎだ、誰かいるんじゃないか、そう期待していた。しかしロビーは相変わらず無人で静まり返っていたのである。この時間では当然管理人のあのおばあさんもいない。仕方なく部屋に戻って賢治は考えた。ということは、やはりこの部屋にだけ起こった現象に違いない。超常現象だ。ポルターガイスト? そんなバカな。否定してはみたが賢治は明日不動産屋へ行ってみることを決意していた。曰く付きの部屋じゃないんだろうな、というわけだ。その夜、3人は何年かぶりで川の字になって眠った。押し入れに眠っていたあるだけの布団を亜紀の部屋に運び出し、ベッドから剥いだマットレスの上に敷いた。ガタガタ震える妻と娘を見ながら賢治は俺が守ると決意するのだった。
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