第5章 夫婦の亀裂

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第5章 夫婦の亀裂

 熱もすっかり下がり、諒佳と亜紀は空腹を感じていた。入院したのが既に食事の時間を過ぎており、二人は何も口にしていなかった。その空腹感がそろそろ我慢できないくらいになりかけていた時、病室をノックする者があった。亜紀は病院側の計らいでほぼ満床の一般病室ではなく個室にいたのである。病室に一人の男が入ってきた。 「あなたは・・・、城ノ内さん・・・。」 入ってきたのはさっき1階で賢治と共に挨拶した505の住人城ノ内和夫だった。手には大きな紙袋を持っている。 「駅まで行ったらこれを売っていて・・・きっとお食事まだだろうなと思いまして。」 そう言って和夫は紙袋の中身を取り出した。駅ビルに入っている中華料理屋50番の肉まんと角煮の挟まった蒸しパン、そして卵スープだった。 「ありがとうございます。ちょうど娘とお腹が空いたねえって言ってたところで。」 諒佳は惣菜を亜紀のベッドテーブルの上に並べると和夫に丁寧に頭を下げた。さっきまで寒々としていた病室が中華料理のおかげで暖かくなった。最初はそう思ったが、実は和夫の物腰や雰囲気、話し方が暖かさを感じさせるのだと諒佳は気が付いた。 「ああ、私下で何か飲み物を買ってきますから、どうぞ召し上がって下さい。お茶でいいですかね? 娘さんは?」 亜紀が頷く。和夫はそれを確認して、 「暖かいうちにどうぞ。」 そう言ってゆっくりとドアを開けて病室を出ていった。さりげない気遣い。諒佳はこういうことに敏感だった。賢治さんは二人の食事のことなど気にも掛けていなかったのに。ふたりは遠慮なく中華饅頭にかぶりつく。空っぽの身体に染み渡るようだった。  和夫がお茶のペットボトルを買って戻って来た時にはすっかり食べ終えていた。亜紀でさえ大きな中華饅頭を全部胃袋に収めていた。 「さ、冷たい方が美味しいかと思って。」 和夫が2人にペットボトルを差し出す。 「ありがとう。」 亜紀は礼を言って受け取ると一息に半分ほどを飲み干した。諒佳はゆっくりと今度は冷たさを味わうように飲んだ。 「あの、お仕事だったのでは?」 一息ついた諒佳が和夫に話し掛けた。 「いいんです。どうせたいした仕事じゃないし・・・。亜紀ちゃん、大変だったね。」 和夫が亜紀に話し掛ける。亜紀は自分の話をまるまるは信じていない父親のことを思った。 「あの、おじさんはマンションの他の人のことも知ってるんですよね?」 亜紀が和夫に気さくに尋ねた。 「知ってるけど、全部って訳じゃないよ。私たちも引っ越して来てまだ1年だし。何人かの人たちとは知り合いだけどね。」 和夫がそう答えるのを待ちきれないように亜紀が更に問いかける。 「あの、あのマンションで変なことが起こったりしたことないですか?」 諒佳はいきなりそんなことを聴く亜紀に驚いた。 「変なことって、どういうことだろう?」 和夫が言う。 「あの、お化けが出たとか、妖怪を見たとか・・・。」 亜紀が言うと和夫は小さな笑い声を立てながら優しく答えた。 「お化けに妖怪かあ・・・、そうだな、残念ながらそういう話は聞いたことないなあ。」 「こら、亜紀。そんなこと聞いちゃ駄目よ。」 慌てて諒佳が口を挟んだ。 「あのね、私この頃とっても怖い夢を見るの。パパやママが妖怪みたいなのに食べられちゃう夢。あの、あの、頭からバリバリって食べるのよ。」 和夫はちょっとびっくりしたような顔をしたが、やっぱり優しそうな声で亜紀に答えた。 「ああ、亜紀ちゃんくらいの年だとね、そういう怖い夢を見ることはよくあるんだよ。どれかの言葉に結びついて大体は恐怖の映像と結びつくんだ。」 亜紀には和夫の言ってることが理解できない。 「例えば、聞きかじるって言葉を亜紀ちゃんは知ってるかな?」 「聞きかじる? よく分かんない。」 「そう。亜紀ちゃんくらいの年だと分からないと思う。でも、この言葉から何を連想する? 映像だよ。」 「ええ? う~ん。」 しばらく亜紀は本気で考えているようだったが諦めた。 「分かりません。」 「私はね、亜紀ちゃんくらいの頃この言葉を聞いて、こう思ったんだ。当時私の家では猫を飼っていたんだけど、この猫が何でも囓っちゃって家の人たちが困ってたんだ。」 猫の話に亜紀が小さく笑った。諒佳は2人のやり取りを聞きながら、和夫のことを何て温かい人なんだろうと感じていた。病気の少女のためにきちんと会話してくれる。 「この猫はね、段ボール箱でも新聞紙でも、玄関に置いてあるサンダルでも何でも囓ってボロボロにしちゃうんだ。これに起こった爺さんが、この猫をどこかに捨てて来ちゃったんだ。」 「酷い・・・。」 亜紀が目を伏せる。 「酷いよね。私もそう思ったんだ。爺さんは自分の盆栽の幹を囓られたことを許せなかったんだけど、何も捨てることはないって、私も思った。でも遠くの町へ捨ててきたんでもう私には探しようがなかった。誰がどういうところで聞きかじるって言ってたのか、それは分からない。私ももちろんその言葉の意味は知らなかったんだ。その晩、私は夢を見たよ。猫が私の耳を囓ってるんだ。夢の中の猫は口が耳まで裂けて、恐ろしい鳴き声を立てながら私の耳を尖った歯で引き裂こうとするんだ。私は逃げだそうと猫を耳にぶら下げたまま、部屋を出る。するとそこでは爺さんの両耳に猫が食らいついていたんだよ。恐ろしい夢だった・・・。私はこの夢を3日続けてみたよ。」 和夫の話を聞いて諒佳は亜紀の症状に何やら合点が入った気がしていた。亜紀はどこかで、もしかしたら私と賢治さんとの会話に、あるいはTVドラマで、何かキーワードになり得る言葉を聞いた。それは亜紀はまだ知らない言葉で、でも何かを連想させる言葉だった。そう、丸かじりとか人を喰うとか、のような。その言葉のインパクトが亜紀の中で勝手な映像を作り出したのだ。私と賢治さんが頭からバリバリ食べられてしまうような。これで亜紀の恐ろしい夢が完成する。諒佳は和夫を尊敬の眼差しで見詰めていた。  「亜紀ちゃん、疲れちゃうといけないから、そろそろ寝かさないと。」 和夫の忠告に従って諒佳は亜紀に掛け布団を掛けると病室の電気を消した。 「亜紀、少しおやすみなさい。」 亜紀を寝かしつけると諒佳と和夫は廊下に出た。廊下の隅に長椅子があった。腰掛ける諒佳と和夫。 「どうかしましたか?」 和夫に呼ばれるまで諒佳は下を向いて考えていた。亜紀の夢と同じように自分が見た赤い天井の謎が解けないだろうかということだった。 「あの・・・。」 だが初対面の人にこんなことを言って変に思われないだろうか。そういう不安が諒佳の頭を過ぎった。だから言い淀んでいると和夫がズバリと切り込んできたのだ。 「奥さん、もしかしたら奥さんも何か不安を抱えているんじゃないですか?」 諒佳は思わず顔を上げて和夫の目を見た。優しそうな目。決して自分の言うことを馬鹿にしたり、決めつけたり、そういうことをしない目だった。 「私は、私は、おかしな夢を見たとか、そう言うんじゃないんです。でも、もしかしたら夢だったのかも知れません。白昼夢ってあるじゃないですか・・・。」 「白昼夢?」 和夫が聞き返したが、目は笑ってはいなかった。 「部屋の天井が真っ赤に染まる白昼夢を見たんです。これって、どういうことなんでしょうか?」 諒佳は言ってしまってからしまったと思った。いくらなんでも今日会ったばかりの人にこんな相談をするなんて、自分はどうかしていると思った。だけど、誰かにすがらなくてはならないくらい諒佳もまた疲弊していたのだ。 「天井が真っ赤に?」 和夫が静かに聞き直した。一笑に付すようなことはなかった。 「はい、天井が血の色みたいな赤い色に染まって・・・。」 あの情景を思い出すと諒佳は身震いした。実際鳥肌が立って寒気さえしたのだ。 「それは、どの部屋ですか? それとも全部の部屋ですか?」 和夫が冷静に質問してきた。 「あの。リビングだけです。私が見たのは。他の部屋はそんなことはなかったです。」 「何時頃のことですかね。夕方で夕陽が差し込んでいたとかでは・・・。」 「違います。夕陽じゃありません。午前中のことです。亜紀を保育園に送って帰ってきてからだから、まだ朝のうちです。」 「そうですか・・・。」 和夫は諒佳の訴えを黙って聞いていたが、やがてゆっくりと話し出した。その様子は大学教授のような、あるいは高名なお医者さんのような落ち着いた風格があった。 「まず、疑うべきは目の病気です。出血性の目の病気いくつかあります。すると視界は赤くなります。まあ、これなら何も心配はないですね。診断が付けばいいんだから。次ぎに心理的なストレスから来る幻視ですかね。」 「げんし?」 「強いストレスが重なって変なものを見てしまう、そういう、まあこれも一種の病気ですね。」 和夫にそう言われてそうかもと思うもののやはり納得はいかなかった。 「そうだ! 天井が赤くなったのは亜紀も賢治さんも見ています。夕食の時でした。」 諒佳はあの時の恐怖が蘇って青ざめた。 「みんなで同じものを見たんですか。」 「そうなんです。地震みたいに部屋がガタガタ揺れて、天井が真っ赤になりました。」 諒佳はあえて群衆の叫び声のような音を聞いたことは言わなかった。あれは賢治の問題で自分も聞いたけど、今は自分のことを相談しているのだから。 「あの、私は心理学者ではないので結論じみたことは言えませんが、集団心理というのがあるそうですよ。たくさんの人たちが同じ幻影を見るとか声を聞くとか、そういう現象です。人の心は感化されやすいそうで、何かのタイミングが合うとそういうことが起こるそうです。ご家族3人なら不安定な心理状態が感応して共通の経験をする可能性もあるかと思いますが・・・。私の空想に過ぎませんね。ただ、申し訳ないんですが、こういう現象が起こるのは同じ考えを持っている場合よりむしろ何かしらの反発というか違う見解を深層心理に抱えている場合が多いようですよ。あ、いえ、ごめんなさい。」 諒佳は和夫の言葉を聞くうちに夫賢治との心の溝みたいなものを確認していた。賢治はいつしか仕事にのめり込むようになり会話も減った。そして夫婦喧嘩にはならないまでもお互い腑に落ちない会話をすることは増えていたのだ。性格の不一致なんて言葉ではなく、それこそ深層で考え方の違いがあるような気がしてきていた。多分夫の方も感じ取っているのではないだろうか。 「奥さん。私の空想が過ぎたようです、申し訳ありません。でも聞いて下さい。ここまではストレスだの心理だの心の病とした場合の話をしました。でも、奥さんは全然健康な精神の持ち主で、起こったことが全て事実だったとしたらどうでしょう。」 「え? それは・・・。」 諒佳は思わず小さく叫び声を上げた。 「そうです。確かに天井は赤くなっていた。そう仮定すると今度は別の考え方が出来ると思うんです。」 和夫はこうして今度は物理や化学の知識を総動員して起こった現象の解明を試みた。それは一生懸命に汗を流しながら。だが残念ながら諒佳には和夫の言っていることがほとんど理解できなかった。ただ自分の味わった恐怖をしっかり受け止めて様々な考え方を提示してくれる和夫を頼もしく感じるのだった。  夕食を終えた賢治と美佐絵はコーヒーを前にソファに並んで腰掛けていた。さっきから美佐絵は賢治にしなだれかかっていて、体温と質感は賢治に直接伝わってきていた。 「ここの管理会社って対応悪いですよね。」 そろそろ話すネタの尽きた賢治は日頃の管理会社への不満をぶつけてみた。 「そうかしら?」 「洗面所のタオル掛けが壊れていて修理依頼して1ヶ月ですよ。何の連絡も来やしない。」 「そうなんだ。うちはどこも壊れてないから依頼したことないけど。」 美佐絵はいかにもそんなことはどうでもいいと言いたげな表情をした。 「マンション管理会社としては大手のそこそこ実績のある会社らしいんだけど、電話したら、何て言うのかな、ロボットみたいな応対で。親身でないって言うか・・・。」 なおも愚痴をこぼし続ける賢治の唇に美佐絵は突然自分の唇を押しつけてきた。突然話題を中断され目を白黒させる賢治だったが、さっき飲んだ1本の缶ビールに理性が飛んでしまったようだ。賢治は美佐絵の唇を受けると覆い被さるように体を動かして右胸に掌をあてがった。諒佳と違って賢治の掌にすっぽり収まる小さな胸。賢治はソロソロと撫で回すとちょっと首を傾げたが、今度はやや力を入れて握りつぶした。美佐絵が思わず声を上げる。賢治は小さな美佐絵を楽々と抱きかかえると夫婦の寝室に運んだ。  亜紀が目を覚ました。顔はびっしょりと汗に濡れていた。激しい息づかい。 「ママ! パパ!」 ベッドにがばと起き上がると辺りを見回した。誰もいない。 「ママ! ママ! ママ!」 そう叫んだ亜紀は目を見開き口を真一文字に食いしばって憤怒の表情を浮かべた。およそ幼稚園児のしない顔だ。怒りと恐れがごっちゃになって、それでも怒りが勝っていた。 「パパ! パパ! パパ!」 今度は父親を呼んだ。病室はしんと静まり返っており灯りも点いていない。 「どこ行ったの! 何してるの! だめ~!」 亜紀は何もない虚空に向けて金切り声を上げた。そしてベッドにバタンと倒れ込んでしまった。この叫び声を巡回中の看護師が聞いた。彼女は押していたワゴンから離れると亜紀のいる個室のドアを開けた。心的ストレス症あるいは過労という子供らしからぬ症状で入院の高山亜紀5歳だという情報を即座に把握すると看護師はベッドに駆け寄った。 「亜紀ちゃん、どうしました? 亜紀ちゃん!」 患者は酷い汗をかき、明らかに高い熱が出ている。水分補給の点滴を確認すべく輸液バッグを見上げて看護師はぎょっとした。輸液バッグが真っ赤だったのだ。血液が逆流している。 「どうして?」 看護師のコールに看護師2名と医師が亜紀の枕元に駆けつけた。このフロアのナースステーションは大混乱となっていた。だが、諒佳の姿はどこにも見えなかった。  賢治は寝室でことに及ぼうとしていた。その時突然娘亜紀の叫び声を聞いたような気がした。耳には聞こえなかった。が心の中に直接響いたような気がしたのだ。賢治はことを中断するとベッドを降りた。 「なんなの? どうしたのよ! 私に恥をかかさないで!」 美佐絵はそう喚くとまだ屹立している賢治の男根を睨みつつそれを手で掴もうとした。 「すまないけど、今日はこれで帰ってくれ。分かってる、この埋め合わせはきっとするから。」 賢治は美佐絵にそう言うと下着に足を通した。もう男の部分は萎んでいた。賢治は荒っぽく美佐絵を立ち上がらせ服を押しつけると出ていくように言い放った。やがて美佐絵が出ていくのを確認すると市民総合病院のナースセンターに電話を掛けた。  諒佳は和夫と病院近くの喫茶店に来ていた。和夫の話をもっと聞きたいと思ったからだ。亜紀に何か冷たいものを買ってくるという名目で病院を出ていた。この時諒佳もまた亜紀の叫び声を聞いたような気がした。だが、それをかき消すように和夫の穏やかな声音が諒佳を包んでいた。それで諒佳は亜紀の異変に気が付かなかった。諒佳が病院からの電話を受けたのは和夫の指が諒佳の唇に触れてからずいぶん経ってからだ。諒佳は下半身を濡らしていた。病院に戻った諒佳は賢治と鉢合わせしかけた。賢治は何も言わずエレベーターに乗り込んだ。諒佳も従う。 「亜紀!」 2人同時に叫びながら病室に飛び込んだ。
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