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新しい街
玉座にもたれかかる新王を、天井に描かれた二つの月が青白く照らしていた。マリはエリを、見ようともしない。
「満足でしょ」
力なく、マリが言う。
「ちゃんと描いてあげたわよ、あんたの街」
「そうね、あたしたちの画ってほんとにそっくり」
「似せてるのよ、知ってるでしょ」
「知らなかったんだよ、マリ」
「そう、だからエリは馬鹿なのよ、本当に嫌なやつ」
マリが鼻で笑う。エリは言い返すことはせずに王の間を見回した。
壁や天井に画を描いているのは蒼黒い影たちだった。壁をよじのぼったり、にじりおりたりしながら色を足していく。新しい街の画はほぼ完成に近かった。マリが手を振ると、影たちが消える。
「何か言いなさいよ。言いたいこと、あるんでしょ」
エリにはマリがひどく疲れているように見えた。もう玉座から立ち上がる力も出ないほど、マリはマリ自身を傷めつけていた。
王の間に描かれた、青い『宝石の都市』を眺める。
エリは青が好きだった。それはこの世界を包む、美しいベールに違いなかった。すべてを繋ぐ光、と表現してもいい。近くと遠くを繋ぐ色、あちらとこちらを混ぜる色。そういう感覚で、エリは青という色を筆にとってきた。
「この街は若いころのパパの情熱がつくった街。あたしたちのものじゃない」
エリは玉座に進み、マリの髪を撫でた。クローバーとソルはふたりを見守っている。
「マリ、誰かの世界を、自分の物にするのはやめにしよう。マリは、マリの街をつくればいい」
ぱしっと音を立てて、エリの手が払われる。
「エリにはわからない! いつも幸せそうなあんたには!」
顔を上げたマリの表情は、暗い憎しみに満ちていた。
「幸せなのよ」
エリは続ける。
「ほんとはみんな、幸せなのよ。気づかないだけ、望まないだけ。みんなに見えないところで、それはあたしたちを、そっと見守っているのに」
風にそよぐシロツメクサは、どれだけの間、街を見つめていたのだろう。誰にも気づかれないまま、それはいつもそばにいた。いつも、今だってそばにいる。
「不幸なふりは楽だけど、それじゃほんとに失礼だわ。幸せはいつだってあたしたちを思ってくれている。あたしたち、立ち上がらなきゃ、努力しなきゃ! 素晴らしい世界を思い描いて、それを手にするのよ!」
「あんたっていつもそう! 能天気で、お気楽で! 自分のことしか考えてない!」
マリは立ち上がり、両手でエリの首を掴んだ。
「なんで、なんで? どうしてみんな、あたしのすることを認めないの? あたしの画を認めないの!? どっちも似たようなもんじゃん! あたしたち、双子なんだもん!」
マリが力を入れて首を絞めつけるので、エリは歯をかみしめて耐える。膝が震える。マリは気づかない。エリと同じ色の髪を逆立て、目を見開き、口を歪める。
「そうよ、なのに! なんでエリはオッケーであたしはノー!? 何がだめなの! 教えてよ! どうしたらいいの! どうすれば認められるの!
だれかあたしを必要として! オッケーって言って! あたしの街はいつだってためいきだらけ! あんたたち、みんな消えちまえ!」
マリに突き飛ばされてエリは尻もちをついた。冷たい大理石の上に、マリも崩れ落ちた。肩を震わせて泣いている。
クローバーが側にやってきてエリの両肩に手をのせた。マリのそばには灰色の騎士が跪いている。
ぼんやりとその様子を見つめる。エリの心は不思議に凪いでいた。マリが何を考えていたのか今なら少し、わかる気がする。
天井を仰ぐ。
『嫌だ! 怖い!』
そう思っても、世界なんて、簡単に塗り替えられていくものだ。
誰かに出会い、何かが起こり、新しい光に満ちれば、世界は変わっていく。
『わたしのせかい』は、いつでも誰かと自身との間で輝き続けるものらしい。マリを知らない以上に、エリは自分自身を知らずにいたのだ。
泣きじゃくるマリをソルの腕がそっと抱いた。何も言わずその小さな肩を温めている。マリが落ち着くのを待って、エリは立ち上がった。
「ふたりで、みんなの願いを形にしよう。きっと素敵な街になる」
エリの心の中にはもう、古くて新しいこの街の姿が、はっきりと描かれていた。
「明るい宿屋、こどもがたくさんいる教室、煙突には煙が絶えなくて、広場では楽しい音楽会。やさしい風がクローバーを揺らし、空にはヒバリが飛んで、強い騎士が、みんなを守るの」
エリの隣でクローバーが微笑んだ。
「あたしたちになら描けるわ。新しい街、新しい明日、素敵な未来、みんなハッピーエンド」
「馬鹿みたい」
マリは涙を拭って、立ち上がる。
「そんなのアリ!? そんなの、ほんと馬鹿みたいに普通じゃない。なんにも特別なことなんてないじゃない。誰にだって思いつくことだよ」
強がるマリに、エリが手を伸ばす。マリはその手をとり、エリの額に、自分の額をつけた。
これは仲直りの儀式だった。小さなころ、母から教えられたおまじない。どんなに大きな声で喧嘩をしたあとでも、こうすれば、ふたりはまた、もとのふたりに戻れるのだと。
「ごめんね」
「謝んないでよ、悪いのはあたしじゃん」
「あたしも悪いの、マリが悪い子だって、知らなかったから」
くすくすと、ふたりは笑い合った。目じりから同じだけの涙がそっとこぼれた。
「いっしょに描こうよ、ふたりでさ。ちっちゃなときにそうしたでしょ」
「同じ画用紙に、ふたりでね」
「へたくそでも、めちゃくちゃでも、ふたりとも全然違うものを描いてても、それでよかった」
「こどもだったね」
エリはマリの頭をそっと撫でた。
「今、あたしにマリの世界は見えないの。どうすればマリが幸せかも、正直わかんない。だけどあのころ、幸せじゃなかった? あたしはきっと、幸せだった」
ふたりの瞳が交わって、ふたりには今、同じ世界が見えていた。父の語った、あのころの街が。
「ふたりでお絵かき、楽しかったね」
「誰にも邪魔されないで」
「「あたしたちが描いた絵は、パパとママが褒めてくれたね」」
ちょっとありえない色彩じゃない?
いーのいーの!
てゆうか無茶苦茶な構図じゃない?
いーのいーの! つべこべ言わずに描こうよ!
誰が文句言ったっていーじゃん!
ためいきなんかつく間もないほどのハッピーを
街中に描きまくるのだっ!
ふたりはもう丸三日、画を描き続けていた。自らの手で、全身を絵の具まみれにして。
エリとマリに描き出され、新しく街に現れた人々は、ふたりのために天井まで届く足場を作ってくれた。この街に、ずっと留まっていた人々と共に。
街には水や火や緑があって、ふたりは時々、実った果実をもいで人々と食べた。王宮の中庭では、何重もの音楽が奏でられている。中心にいるのはスドルフスキだ。
騎士は城の中を忙しく行き来し、オリビエは洗濯に炊事に大忙し。コルツはもちろん煙突掃除にぬかりがなく、ウォルシュタインは長机の前に座り、友人と共に、先生の話をきいている。
クローバーはずっとエリのそばにいた。新しい街が描かれるのを、彼は一秒たりとも見逃さなかった。
二人が天井に最後の雲を描いたとき、窓から一羽のヒバリが入ってきてエリの肩にとまり、またすぐに飛び立って、音楽の聞こえる中庭に去って行った。
「おわったね」
マリが息をつく。
「まだだよ、マリ」
エリがマリの耳元に何事かをささやくと、マリはしたり顔で笑ってみせた。
「いいね、それ。最高じゃない?」
二人はソルを呼んで、街の人々を城に集めるように言った。人が集まってくるのを待つ間、ふたりは王の間に画を描き足していった。玉座の上に色を重ねて塗りつぶし、新しい椅子をふたつ描いた。
やがて城の外で多くの人の声が響いた。ふたりは、新しい玉座の片側に灰色の瞳を持つ立派な王を、その隣には美しいお妃さまを描き足したのだ。
「ばんざーい!」
外から歓声が響いてくる。
「新王、ばんざーい!」
ファンファーレが鳴り響き、拍手は鳴りやまない。
エリとマリは中庭へ出た。王冠をかぶって立ち尽くすソルのそばに、美しい女性が微笑んでいる。
「まさか、そんなことが?」
ソルが半ば茫然としてつぶやいた。
「さぁ王様、みんなが待ってるわ」
エリが言うとソルはその手をとり、甲に口づけ、勢いよく抱きしめた。
「開拓者に、祝福を!」
「ちょっと、そんなのあり!? エリだけなの?」
腰に手を当てたマリが口を尖らせる。
「ふたりの開拓者に、祝福を!」
ソルはマリの手に口づけ、双子をいっぺんに抱きしめた。その様子を見た王妃は、口に扇を当てて上品に笑った。
ふたりは王と王妃に付き添われ、橋へと向かった。開拓者と王と王妃の後ろには音楽家たちが、その後ろには街の人々が続く。
音楽も高らかに、行列が大通りを進んでいく。紙吹雪が舞い、祝福の歌声がうねりをあげる。喜びに満ちて行進する人々の中に、ためいきなど入り込む隙はなかった。
クローバーは塔の前で待っていた。
王と王妃に、それから街の人々に別れを告げた後、エリはクローバーのそばに行き、ふたりは抱き合った。
「ありがとう、ほんとうに、ありがとう」
「ありがとう、クローバー。あたしこそ感謝してる」
ずっとこうしていたいな、エリは思った。多分、クローバーもそう思っているだろう、とも。
「もう、行かなくちゃ」
エリが言うと、クローバーは腕を離した。
「さようなら」
緑色の瞳がうるむ。
「さようなら」
また、会おうね。
その言葉を飲み込んで、エリは少年に口づけた。ぱっと離れるとクローバーの顔も見ずに駆けだす。
「待ってよ!」
マリがエリを追う。ふたりの少女は塔の向こう、橋を渡った世界に風のように消えてゆき、残された少年の口からは、甘いためいきがこぼれた。
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