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盲目の音楽家
エリは再び、大通りを歩いていた。音楽家を探しながら。
直感だった。だがおそらく、彼はまだ、ここにいる。盲目の音楽家スドルフスキは、きっとこの街にいる。エリは半ば願うように広場へ向かう。
マリとふたりで聞いた父のお話には、歌や音楽が欠かせなかった。王宮で、広場で、街のいたるところで音楽は絶えないはずだった。今は風の音しか聞こえないこの街に、もし彼がいるならば、彼は弦を震わせ、音楽を奏で続けているだろう。
『スドルフスキは盲目の音楽家。だけど、彼の奏でる音色は何よりも澄んで美しく、街の四季を描き出しました……』
父が嬉しそうに語っていた。音楽家の話。
『彼がやってきたのは、彼がまだサーカス団付きの楽師だったころ。彼は王に請われて街に残り、音楽を奏で続けることになりました。春の広場に若者の夢を奏で、夏は川辺で、過ぎし日の恋を。秋には実りの喜びを、冬には……』
「なぐさめといたわりの歌を」
広場についても、そこには風があるだけで、誰一人いない。エリは情報屋を振り返った。
「スドルフスキは出て行ってしまったの?」
「いいや、彼はまだ街にいる」
「そう」
「会いに行くかい?」
「ううん、だいじょうぶ」
エリは首をふる。スドルフスキの後を追って、彼にすがることはルール違反だと、エリは知っている。
「彼の音楽はいつだって、本当に必要なときに奏でられる。王がそう言っていたわ」
「ぼくはそれを知らないな」
「そうね、きっとあなたは知らない。知っているのはわたしたちだけ」
王と、双子だけ。
「ねぇ、情報屋さん」
エリは噴水の縁に腰掛けた。本来水があるところに溜まった風の中に手を入れる。指に誰かの想い出がまとわりつく。
「あなたの幸せってなに?」
「ぼくの?」
「そう。ためいきが消えるためには、その人が幸せになるしかないでしょう? だからあたし、どうしたらその人が幸せになれるのかを知りたいの」
「ぼくは」
情報屋は自身のやわらかそうな蜂蜜色の髪をなでた。
「わからない、はナシよ。ちゃんと考えて、思い描いて答えてね」
エリが釘をさすと少年は困っているようだった。
「想像するの、そうよ、あたしも。思い描く。どうすればいいか、どうしたいのか」
エリが目を閉じる。
誰かのためいきを消せば。
情報屋は言い、アターシャは歌う。
誰か、ではなくみんなのためいきを消すことはできないのだろうか。この街がどうなればエリや、父や、街の人々は幸せになれるのだろう。
「不思議だわ、あたし、そのことを想像してみるだけで、少し幸せになれるみたい。あんなに悲しいことがあったのに、それが少し、薄れるみたい」
『わたしのせかい』が輝くのをエリは感じていた。無くしたくない、奪われたくない、傷つけられたくない『わたしのせかい』。その世界が誰かを思うことで広がり、輝いていくような気がする。
みんなが幸せになるにはどうしたらいいの。
エリはもう一度、自身に問かける。
街を出た王は帰らない。彼はたぶん、新しい『わたしのせかい』を見つけてしまったから。消え去らなかったことを思えば『街』はまだ、彼のなかで生きてはいるけれど、色あせてしまったのは真実だ。双子に話して聞かせる、遠い昔話になってしまったのだ。
しん、と風の音が遠ざかる。
エリは驚いて立ち上がる。情報屋はおらず、エリの隣には老人が腰掛けていた。大きな古いコントラバスを抱えている。老人はコントラバスに弓を当てた。
「ごらん、彼女が歌っている」
ひくく ふかく
ひびくわ ああ!
きこえるの あの音
うたうの あの日を
きえてしまった街のこえ
いまは鳴かない小鳥たち
かすかに うつろに
ひびくわ ねえ!
きこえていたのよ
あの日には
彼のゆびから こぼれる光
あのすばらしい
すばらしいうた!
一羽のヒバリが広場の上を旋回している。
「アターシャ」
「ほう、彼女を知っているのかい?」
「もちろん! あなたにも、きこえるのね?」
ふふふ、と老人は笑った。豊かな髭が白い苔の塊みたいに動いた。
「きこえるとも」
老人は手と指を動かし、コントラバスを奏で続ける。
老人の奏でるコントラバスには弦がない。エリの耳に音は聞こえない。聞こえない音が心には、ひくく、ふかく、歌うように響いてくる。
「とても好きだわ、あなたの音楽」
「きこえるのかね、わしの奏でるこの音が」
ほ、ほ、とスドルフスキが肩を揺らす。音の鳴らない楽器に指を滑らせ続ける。
「きこえるわ」
エリは両耳に手を当ててみせた。風の音がどんなに大きくなっても、楽器は音を出さなくても、そのメロディは確かに響いている。
「悲しいけど、とても素敵よ」
「そうかい、それはよかった。王は去り、今じゃわしの音楽をきいてくれるのは、彼女だけさ」
「いいえ、きいてるわ。風もレンガも」
エリは広場をぐるりと見回す。音楽家が現れたあと、街はほんの少しだけ息を吹き返しているようだった。
「みんな、あなたの音楽に合わせて歌っているもの」
スドルフスキは身体を震わせて笑った。
『よく笑うのが彼の良いところさ』
父が語ったのを思い出す。
「いつでもききに来るといい。わしはここにいよう」
「王はもどらないのに?」
「時は止まった。だが想い出はある」
「街を出て、新しい弦を張れば、他の人にも聞こえるわ」
「いいや、だめだね。ここでなきゃ」
スドルフスキの指の動きが激しさを増す。
「大切なものを忘れて何になる。想い出を捨てれば、わしはただの、音出しかしましじいさんさ」
自分で言って、スドルフスキはまた体を揺らした。
「スドルフスキ、ここはためいきばかりよ」
「ではそれを音楽にしよう」
風は今、歌っていた。音のならない楽器と、盲目の音楽家と共に。
「あたし、いつか必ず、あなたを描くわ」
エリは城に向かって歩き出す。
彼女が来ている。いや、彼女も来た。
そう風が知らせているのを聞いたから。
街を包む音楽の中に、大きなためいきが混じるのを、聞いたから。
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