第1話 紅目の魔法使い

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 途端に七都は、何層にもなった、賑やかな音に包まれる。  扉の正面にはカウンターがあり、宿屋の主人らしき中年の男性が座っていた。  カウンター以外の空間には、テーブルと椅子が雑多に並べられ、客たちが飲食をし、陽気に騒いでいる。  客たちの大声で話す声、笑い声、酔っ払って叫ぶ声。食器の音。そして、そこに渦巻く料理や酒の匂い。  それは、ほっと出来るものではあった。大勢の人々がそこにいるという証しなのだから。  けれども、七都は気分が悪くなる。  魔神族の体は、人間の食べ物をやはりどうしても受け付けない。  こういう閉ざされた空間にこもった食べ物の強い匂いも、どうやら駄目らしい。  七都が姿を見せると、客たちはさりげなく七都を観察した。  だが、額にはめているV字型の銀の輪の意味を理解すると、途端に視線をそらし、それまでの行動を何事もなかったかのように、続けるのだった。 「お泊りですか、アヌヴィムの魔法使いのお嬢さん」  宿の主人が、七都に話しかけた。 「あ、はい。部屋、空いてます?」 「もちろん、空いてますよ。前払いでお願いしますね」  主人が、七都を疑り深く、無遠慮に眺める。  後払いにして、何度も宿代を踏み倒された経験があるのかもしれない。  七都は上着のポケットから、小さな布袋を取り出した。  中から金色の硬貨をつまみあげ、宿の主人に手渡す。 「足りますか?」  主人は、その金貨を手のひらに乗せたまま、あんぐりと口を開けた。 「足りるどころか。十泊されたって、お釣りがたくさんいりますよ」 「そうなんですか。一泊でいいんですけど」 「では、いちばんいい部屋を使っていただかなくてはいけませんね」  金貨が入った袋は、上着のポケットに、最初から入っていた。  町を出てしばらく歩いているうちに、七都はポケットにそれが入れられていることに気がついたのだ。  金貨は、全部で五枚入っていた。  一枚でこういう宿に十泊以上できるなら、七都にとっては、結構な大金ということになる。  もちろんゼフィーアが、さりげなくポケットに忍ばせておいてくれたに違いなかった。  宿に泊まって、あたたかいベッドで眠ること。人間の食べ物も水も買う必要のない七都にとっては、それぐらいしかお金を使うことはない。  ゼフィーアは、そのことも見越していたのかもしれない。  夜になったら野宿なんかしないで、きちんとベッドでお眠りなさい。  彼女にそう言われているような気がした。 (ありがとう、ゼフィーア)  七都は、改めて彼女に感謝する。  今夜は宿に泊まるよ。お金は遠慮なく使わせてもらうね。 「お食事は?」  宿の主人が七都に訊ねた。 「いりません」  七都は答えたが、ふと考える。  食事をしなかったら、あやしまれるかな。 「えーと、その。ちょっと疲れすぎて、気分がすぐれないので」  その時、誰かが、七都の三つ編みをした髪を後ろから、ぐいと引っ張った。 「え?」  七都は振り向いたが、そこは壁だった。誰も立ってはいない。  だが、七都が動こうとすると、髪は再び引っ張られる。  宿の主人が、ひいいっと叫んだ。  七都の三つ編みの髪の先は、壁の中にめりこんでいた。  壁の表面から、髪が垂れ下がっているような状態になっている。 (なに、これ……)  七都は、呆然と、自分の髪を見下ろす。  引っ張ってみたが、髪は壁から抜けなかった。  固く、壁の中にぬりこめられている。  魔法?  誰かが魔法を使って、ちょっかいをかけている? 「だ、だいじょうぶ、お嬢ちゃん?」  宿の主人が、焦りまくって七都に訊ねる。 「だいじょうぶじゃないですっ!」  七都は、叫んだ。そして、客たちをさっと見渡した。  この中にいる。  魔法を使って、こんなくだらないいたずらをした誰かが。  すぐに七都は、ホールの隅で酒の入ったグラスを片手に持って、笑いをこらえている一人の若者を見つけ出した。
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