42人が本棚に入れています
本棚に追加
/119ページ
途端に七都は、何層にもなった、賑やかな音に包まれる。
扉の正面にはカウンターがあり、宿屋の主人らしき中年の男性が座っていた。
カウンター以外の空間には、テーブルと椅子が雑多に並べられ、客たちが飲食をし、陽気に騒いでいる。
客たちの大声で話す声、笑い声、酔っ払って叫ぶ声。食器の音。そして、そこに渦巻く料理や酒の匂い。
それは、ほっと出来るものではあった。大勢の人々がそこにいるという証しなのだから。
けれども、七都は気分が悪くなる。
魔神族の体は、人間の食べ物をやはりどうしても受け付けない。
こういう閉ざされた空間にこもった食べ物の強い匂いも、どうやら駄目らしい。
七都が姿を見せると、客たちはさりげなく七都を観察した。
だが、額にはめているV字型の銀の輪の意味を理解すると、途端に視線をそらし、それまでの行動を何事もなかったかのように、続けるのだった。
「お泊りですか、アヌヴィムの魔法使いのお嬢さん」
宿の主人が、七都に話しかけた。
「あ、はい。部屋、空いてます?」
「もちろん、空いてますよ。前払いでお願いしますね」
主人が、七都を疑り深く、無遠慮に眺める。
後払いにして、何度も宿代を踏み倒された経験があるのかもしれない。
七都は上着のポケットから、小さな布袋を取り出した。
中から金色の硬貨をつまみあげ、宿の主人に手渡す。
「足りますか?」
主人は、その金貨を手のひらに乗せたまま、あんぐりと口を開けた。
「足りるどころか。十泊されたって、お釣りがたくさんいりますよ」
「そうなんですか。一泊でいいんですけど」
「では、いちばんいい部屋を使っていただかなくてはいけませんね」
金貨が入った袋は、上着のポケットに、最初から入っていた。
町を出てしばらく歩いているうちに、七都はポケットにそれが入れられていることに気がついたのだ。
金貨は、全部で五枚入っていた。
一枚でこういう宿に十泊以上できるなら、七都にとっては、結構な大金ということになる。
もちろんゼフィーアが、さりげなくポケットに忍ばせておいてくれたに違いなかった。
宿に泊まって、あたたかいベッドで眠ること。人間の食べ物も水も買う必要のない七都にとっては、それぐらいしかお金を使うことはない。
ゼフィーアは、そのことも見越していたのかもしれない。
夜になったら野宿なんかしないで、きちんとベッドでお眠りなさい。
彼女にそう言われているような気がした。
(ありがとう、ゼフィーア)
七都は、改めて彼女に感謝する。
今夜は宿に泊まるよ。お金は遠慮なく使わせてもらうね。
「お食事は?」
宿の主人が七都に訊ねた。
「いりません」
七都は答えたが、ふと考える。
食事をしなかったら、あやしまれるかな。
「えーと、その。ちょっと疲れすぎて、気分がすぐれないので」
その時、誰かが、七都の三つ編みをした髪を後ろから、ぐいと引っ張った。
「え?」
七都は振り向いたが、そこは壁だった。誰も立ってはいない。
だが、七都が動こうとすると、髪は再び引っ張られる。
宿の主人が、ひいいっと叫んだ。
七都の三つ編みの髪の先は、壁の中にめりこんでいた。
壁の表面から、髪が垂れ下がっているような状態になっている。
(なに、これ……)
七都は、呆然と、自分の髪を見下ろす。
引っ張ってみたが、髪は壁から抜けなかった。
固く、壁の中にぬりこめられている。
魔法?
誰かが魔法を使って、ちょっかいをかけている?
「だ、だいじょうぶ、お嬢ちゃん?」
宿の主人が、焦りまくって七都に訊ねる。
「だいじょうぶじゃないですっ!」
七都は、叫んだ。そして、客たちをさっと見渡した。
この中にいる。
魔法を使って、こんなくだらないいたずらをした誰かが。
すぐに七都は、ホールの隅で酒の入ったグラスを片手に持って、笑いをこらえている一人の若者を見つけ出した。
最初のコメントを投稿しよう!