花嫁 4

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花嫁 4

 こうなることは薄々わかっていたことだ。だから彼女に名前を尋ねることをためらっていたのだ。ーーそう後悔しない日はなかった。  その朝もルエキラの心は沈んでいた。が、おかまいなしに父親が寝室へ押し入って来た。 「ルエキラ、いつまで寝ているんだ。今日は春分の祭りの日だぞ。最長老さまの御前で琴をひくのだから早く支度しないか」  少し上ずった声でルエキラをせきたてた。それも無理からぬことなのだ。ルエキラはネの国最大の行事、春分の祭りの代表楽士の一人に選ばれたのだ。 「騒がないで下さい。今起きます」  渋々と寝台の中からはい出し、洗顔をすませると前日より用意されていた晴れ着に袖を通した。  生まれて初めて着る絹の長衣。普段、絹の着用を許されているのは王族と神殿の長老以上の位を持つ特権階級の人々に限られている。父親は嬉しそうに目を細め何度もうなずいた。 「やっぱり今日は外出したくありません」  ルエキラはいまひとつ心が晴れないまま言うと、父親は彼に琴を押し付けた。 「何を言っている。今日の舞台で成功すれば出世もたやすくなるんだ」  真顔で自分の背丈をとうの昔に追い抜いた息子の瞳を下から見詰めている。 「出世もなにも望みません」  彼女がいなければ何もかも無意味なのだ。と、その言葉は飲み込んだが。 「御託を並べるな。とにかくやるだけのことはしろ。お前を推薦して下さった教官に迷惑をかけるわけにもいかないだろう」  それにはルエキラも力なく同意した。父親はルエキラの目を絹の幅広の布で隠した。  春分の祭りのときに、最長老と王族の御前に出る者は目隠しをするしきたりなのだ。 「そう言えば、王子だか王女だかの教師を今日の楽士の中から選ぶとか言っていたぞ」  ふうん、とルエキラは興味を感じることもなく聞き流し、その後は父に手を引かれ何も話さなかった。  代表楽士達は王宮と神殿とが共有する空間、時女の間に琴を抱え床に座していた。  ルエキラは目隠しとはいえ、王の御前であるのに少しも動じない自分に驚いていた。さながら波ひとつない湖面のようだ。                     「さあ、選ばれし三人の楽士よ春の(アビノア)を呼んでおくれ」   初めて聞く最長老の声は、低く耳に心地よいものだった。その声を合図にルエキラ達は演奏を始めた。神殿の中からこの日のために選ばれたいずれ劣らぬ琴の腕と美声の持ち主たちだ。  みごとな和音の旋律が紫微城の広間に流れた。複雑な音階と難解な古代真聖語で綴られてゆく春の女神アビノアの為の歌は総て目隠しで行われる。  春の訪れが遅い高山地帯のネの国に女神アビノアを呼ぶ行事は、この国最大の祭り事なのだ。今年の健やかな天候と、豊かな実りを願う歌は、三人が時にはみな同じ音、歌詞を奏で、時には和音になり低い音が高い音を追い掛け、厳かであったが決して人々を退屈させるようなものでもなかった。  ……やがて分れていた三人の声が一つの音になり大きなうねりとなって広間に響き渡り静かに消えていった。  その場に居合わせた者たち、神殿の長老、王族や大臣らはこのすばらしい出来栄えの演奏に惜しみない拍手を送った。 「うむ、見事であった。これで女神アビノアもきっと満足なさっただろう」 「恐れ多いお言葉、誠に有り難う存じ上げます」   楽士の中で最年長のサウルが代表で答えた。他の二人ールエキラ、ノーザもサウルの言葉にあわせて深くこうべを下げた。 「さて、それでは次に一人一人に歌を所望したい。曲目は任せよう。自分が一番得意とする曲を歌を聞かせてくれ」  目は隠していても、自分と同じく戸惑うようすがルキエラにも伝わった。しかし、最長老自らの願いをまさか断るわけにはいかない。短い沈黙の後、サウルが口を開いた。 「かしこまりました。それでは年齢順に。私、サウル・サムエルから」  サウルが選んだ曲はこのネの国がたどった波乱の歴史の歌だった。  遥か古代、ネの国は現在の中つ国、イの国を包括する大国ラ・ウィルカ帝国を築いていた。その文明の高さは他の民族の追随を許さず、リガ大陸の統一とまでなったがやがて東国から侵入して来た斎民人(イツキノタミビト)のもつ筮銀剣によりビルカ山脈の奥深くにまで追い詰められていく。  彼はこのような雄大な歌を劇的に歌い上げることを日ごろから得意としていたのだ。  彼の歌が皆の心を打ったことは、歌が終わったときの拍手の大きさに現れていた。  さて、その後に歌ったのは、琴の名手としてかなり名の知れているノーザ・ヤラムだった。彼は自分のうでのみせどころをよく弁えて、高度な技巧を要する曲を選んだ。  これは歌詞がほとんど無くひたすら指を巧みに動かさなくてはならないものだった。それをノーザは目隠ししたまま一音も外す事なく正確かつ優美に弾きこなしていく。隣にいたルエキラも彼の琴のすばらしさに聞きほれてしまった。  拍手喝采! 最長老自ら彼の腕前をたたえた。  さて、いよいよルエキラの番となった。しかし、その段になってもルエキラは何を歌うのか決めてはいなかった。そのため彼は少しずつあせり、いまさらながら緊張してしまった。琴を握る手がじっとりと冷汗をかき始める。  なまじ先ほど二人の演奏があまりにも最上の出来だったために、人々の期待はいやが応でも膨れ上がり、広間の温度が少し上がったようにも感じられる。  その熱気がこもる沈黙を破って、どさり、という人が倒れ込む音が響いた。  一瞬にして静寂は破られ、人々は騒ぎ始めた。 「姫さま、姫さま……」  だれかが駆け寄り、姫は別室に運ばれていったようだ。 「もうしわけない。末姫は体が弱くてな。軽い貧血だ。気にせず演奏を始めてくれ」  王はその場の雰囲気を取りつくろい、皆を静めさせた。  ルエキラは軽く弦を弾き始めた。彼自身まだ歌う曲を決めてはいなかったのだが、自然に指がある旋律を探り当てた。  高く澄んだ声が響いた。その曲は、決して壮大でも、特別技巧を要する曲でもなかった。地味な、曲名さえない。六十七番というそれらの雑歌を整理する番号が付いているだけのしろものだ。  ラバァタ神の娘に生まれながら、人に恋をし神から精霊に身をおとされ、しかもその恋に破れたとき、悲しみのあまりにこの地を去り、はるか天空に昇って行く風の精霊テアの歌。  ルエキラはいつしか平常心に戻っていた。からだ全体を何か暖かい光が取り囲んでいるようだ。……まるですぐそばにテアがいるようだ、とルエキラは感じていた。  そしてふいに気が付く。六十七番。これは初めてテアが現れた晩に練習していた曲だということに。  彼女はとうの昔に名前をあかしていたのだと。  本当にささやかな歌だった。しかし、ルエキラの語るせつない恋物語は聞く人々の胸に深く染みていったようだ。  曲が終わったとき居合わせた貴婦人らは涙声で称賛をおくり、暖かい拍手が広間にこだました。 「なぜその名を知っていたのだ……」  誰の声だろうか。小さなつぶやきとも取れる声を、朝から視力を使わずにいたルエキラの研ぎ澄まされた耳は聞き逃さなかった。 「いや皆すばらしかった。大いに楽しませてもらったぞ」  これは心からの賛辞であろう。ルエキラら楽士もそれぞれの出来に満足し再び深くこうべを下げた。 「いやぁ、実際冷汗ものだったよ」  大きく伸びをしながらサウルは言った。代表楽士らは御前演奏を終え、控えの間で帰り支度をしていた。  「ほんとにいつしくじるかと思うと、冷々しながら弾いてたよ」  と、これはノーザ。彼は後ろで一つに縛っていた髪をさらりとほどいた。 「あの、先輩方、あの言葉聞こえましたか」 「なんのことだ」  二人は不思議そうにルエキラをみやった。 「私が歌い終えたときに、誰かが……」 「ああ聞こえた。なぜその名前を、とかおっしゃったんだろう」  ノーザが手をひとつ打って同意した。 「それなら私も聞いたぞ。あれは、王の声だったろう」  王がわざわざ口にしたあの言葉には何の意味があるのだろうか。自分でもなぜ気にかかるのかわからなかった。 「私はまさか君があの曲を選ぶとは考えも付かなかったよ。六十七番といったら練習曲だろう。それもめったにやらない」 「そう。精霊テアの名は余り有名ではないものな。それで感心したんじゃないか」  年長の二人の楽士はそう解説したが、たかだか精霊の名前をひとつ知っていただけで感心するのだろうか。仮にも神殿で学ぶものが、神々や精霊の名を覚えていることは当然のことだろうに。ルエキラはどこかすっきりといかないものを感じ取った。 「ところで、これからどうする?」  お祭り好きらしいノーザが二人に聞いた。祭りは始まったばかりだ。外からは賑やかな人々の声が響いてくる。 「私は友と約束があるので、ここで失礼するが」 「ルエキラ君はどうする」  ノーザは人好きする笑顔で振り返った。 「私は家に帰ります」  今日はとても疲れたのでと説明したが、ノーザはルエキラを誘った。 「せっかくの祭りなのに、せめて正午の王族の謁見ぐらいは見て行かないか」 「そうだな、それくらいなら見る時間はあるし。それに今年は初めて王子、王女が全員バルコンにお立ちになるそうだ。ルエキラ君一緒に見ていこう」  最年長のサウルにまで誘われたら断る訳にはいかなくなった。あまり乗り気のしないままルエキラは同意した。  春分の祭りとはいえ、高山地帯のウィルカの本当の春は遅い。風は冷たいが今日はまだ良い天気に恵まれたほうだ。  ルエキラたちは一般市民よりも一段バルコンに近い所に立っていた。彼らが他の人々よりも高いところに陣取れたのにはわけがある。代表楽士としての努めを果した報奨というところだ。だから彼らのほかにも、軍隊に功績のあった者や、神殿に多額の寄付を寄せた裕福な商人などもいた。   もうすぐ正午になる。見上げているバルコンに王族たちが間もなく現れるだろう。  市民達は年に一度しか彼らの前に姿を現さない王族を一目見ようと紫微城の下に集まっていた。  そのざわめきときたら。隣にいるノーザとの会話も困難なほどだった。  歓声が一際高く上がる。王がバルコンに現れたのだ。この日の為の特別の衣装。白地の外套には金糸が織り込まれており、日差しの下で王の威厳をそのまま示すように光り輝いた。  その後に続くのは、正妃、第二妃、第三妃とそれぞれの王子王女。彼らも皆揃いの服を身に纏っていた。  そして、一番最後に現れたのは侍女に手を引かれた小さな姫だった。  うつむき他の年長の王子王女らになかば隠れてよく見えない、はかなげな姫君の姿をルエキラはかいま見て、とっさに時女の間で倒れ伏した末姫のことを思い出した。かわいそうに、彼女はまだ体調が思わしくないのだろうに、無理をおしてこの場に来たのだろう。  王族は人々の歓声に手を振って答え、祝いの金貨銀貨そして小さな花束を彼らのためにふるまった。  人々の歓喜は頂点に達し、降りしきるそれら王族の恩恵を少しでも得ようと蜂の巣をつついたようなすざましい騒ぎへと転じていった。王子や王女も自らの手で彼らに金貨を与えた。ようやく末姫がおもてを上げ、前に進み出て人々を見下ろした。まさにその時だ。 「テア!」  ルエキラは不意に見付けた。彼が探し求めてやまなかった少女の姿を。  いつものように髪は後ろに流してはいない。耳の両脇にきちんと編んで止めている。ほかの王女たちとお揃いのドレスを着ていたが彼女を見まちがえるはずはなかった。  静かに手を振る彼女にルエキラは必死で叫んだ。しかし、その声は周りの声にかき消されテアの耳に届くことはなかっただろう。  いつの間にやらルエキラは祭りの人ごみの中を熱に浮かされるように歩いていた。その肩を突然誰かがたたいた。  のろのろと振り返るとそこには父親が立っていた。そして彼を強く抱き締めた。 「よくやった、よくやった。素晴らしい演奏だったそうじゃないか」  珍しいことにひとしきり今日の演奏を誉めた。いつまでも続くかと思われるその言葉をルエキラは制した。 「父上、今日の謁見をご覧になられましたか」 「もちろん。だがそれがどうかしたか」  父親は怪訝そうに息子のことを見た。 「では、覚えておいででしょう。今日城のバルコンに並んでいた一番小さい姫と結婚したいのです」  ルエキラは真剣な眼差しで父親の瞳を見つめたまま動きを止めた。 「な、何を馬鹿なことをいっているんだ。そのようなことが出来るはずがなかろう。神殿側の我家に王族が嫁ぐことなどありはしない。わしの言っている意味がわかるか? 万が一それが叶ったとしても、お前は人生を棒に振ることになるのだぞ」 「第一引き合わせてもらえるつてとて無いのに」  そう答えたものの、余りにもいちずなルエキラの態度に父親は戸惑った。  ……そして、つてが無い、といわれたルエキラのもとに末姫テア・ラエルの教師に就くようにとの知らせが届いたのは祭りの日からわずか三日後のことだった。 「長かった。本当にこの日が巡って来るのかと幾度も疑ったほどに」  ルエキラは静かにテアを引き寄せるとその体をそっと抱き締めた。少しでも力を入れると折れてしまいそうなほどに彼女の体はきゃしゃだ。  テアはルエキラの胸に体を預けた。二人の唇が静かに重なり合った……。
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