花嫁 1

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花嫁 1

天空より下りたる尖耳族(せんじぞく)、両の耳尖りたる異形の者なり。 しかるにかの氏族はラバァタ神の寵愛を受けたる貴き民なり。 その赤き髪もゆるごとく、その瞳黄金に輝くばかりなり。 空を恋いて、高き峰ウィルカにネの国つくりたり……。  王女テアを知るものは少なかった。  それでも母ゆずりの美貌を受け継いでいる彼女は、ごくたまに誰かの口から漏れるときもあったが、父親であるネの国の王ネブカドネザルから冷やかな視線を向けられると、すぐに話題は変わった。  そしてテア姫は紫微城の一角に部屋を与えられ、一八年のあいだ城から一歩も外へ出たことはなかった。少なくとも体は……。  ビルカ山脈のただなかに位置する高山都市、ウィルカにもようやく春が巡って来た。  冬のあいだは決して嗅ぐことのなかった湿った土の匂いが、暖かい風にのって来る。草花が一斉に芽吹くのもそう遠くはないだろう。  ルエキラは広大な城の中をテアの部屋を目指して歩いていた。  ネの国人特有の鮮やかな緋色の髪は今日のために短く刈り、正神官のみがつけることを許されている銀の輪で額を飾っている。行き交う人がみな振り返るのは、彼の端正な顔立ちばかりが要因ではない。良きにつけ、悪きにつけ、ルエキラ正神官とテア姫は王宮と神殿の多くの人の関心を買っていることはルエキラ自身もよくわかっているからだ。  ルエキラは自分なら他人のあからさまな視線をそれほど気にはしないが、できればテアには不快な思いはさせたくないと思った。  やがて回廊の奥のテアの部屋の前に行き着いた。扉のまえにまでくると、ルエキラは今更ながら緊張してしまった。こうしてテアを迎えに来られる日を長い間、願い続けてきたのだから。  軽く数度扉をたたくと、すぐに侍女の手で開けられた。顔を合わせたとたんに、侍女は人差し指を唇にあて、ささやくように言った。 「姫さまは今、お休みになられています」  ひとこと釘をさしてからルエキラを部屋に招き入れた。  与えられた二間の奥の部屋を姫は寝室にあてていた。壁を穿ちしつらえた寝台に姫は両手を軽く胸の上に組み、横たわっていた。  生来病弱で外出用の服などめったに着たことのない姫が、今日ばかりは美しく着飾っている。  金色に近い赤く長い髪は複雑に編みこまれ、ところどころに碧玉の髪飾りがさしてある。一見するとなんの模様もない純白の衣装は目をこらせば、真珠がちりばめられているのがわかるという手の込んだものだ。腰を止めている帯は、緋色のやわらかな幅広布。それに絡み付くように宝石が縫いつけられている上等の品だ。  一瞬、ルエキラは姫がこときれているのではないかと不安になった。まるで白磁で出来た人形のように、命ないもののように冴え冴えとした美しさだったからだ。  静かに駆けより慣れた手つきで姫の手首を取り、顔をのぞきこんだ。  かすかな寝息と確かな脈拍。小さく上下する胸。ールエキラはほっと胸をなぜおろした。 『遊びに行っているだけか……』  ルエキラはテアの顔を見つめた。 「ルエキラさま。正神官就任おめでとうございます」  盆にお茶を乗せた来た侍女が深々と頭を下げ、改まって祝いを述べた。就任の儀は先程終了したばかりだ。 「ありがとう」  茶器を受け取りながらルエキラは軽くほほ笑んだ。 「姫さまは今朝から少し興奮ぎみだったのです。いつもより体調がよろしいからとおっしゃってバルコンに出て散歩などされていたのですが」 「張り切りすぎたのだな、我が姫君は。それで御典医殿から薬でも処方されたか」 「はい。もう少しでお薬も切れるはずですので」  そう言い残し侍女は再びていねいにお辞儀し、退出していった。  ルエキラはお茶を飲みながら部屋を見渡した。……大小ふたつの机。大きい方は部屋の中央に、もうひとつは壁におしつけられている。その両方とも本が山をなしている。それも古書ばかりだ。神殿の経典寮書籍神官の手で写された貴重なものだ。なかには神殿からは持ち出してはならないはずのものも混ざっている。  中央の机の横には書見台があり、小柄なテア姫の身の丈の半分はありそうな本が立て掛けられている。これだけはいつ訪れても同じ頁が開かれている。  ゆっくりとお茶を口に運びながらルエキラはその頁の大半を占める見開きの図版を眺めた。地図らしいことしか分からないそれをテア姫は信仰の対象にしているようだとルエキラは感じていた。  ネの国なのかあるいはビルカ山脈の彼方にあるという誰も見たことのない土地のものなのか。少なくともルエキラはこのような地形は知らなかった。地図の大半を埋めるような水のあるところは……。  しかし、テアはこれこそ尖耳族が崇めてやまないラバァタ神がいうところの『約束の地』であると信じて疑わないようだ。   本は真聖文字で書かれてある。神殿のごく上層部の者にしか継承されない文字だ。今日正神官になったばかりのルエキラに読めるはずもない。いや、この先もずっとだ。自分はこの本の説明だけはテアにしてあげられないだろうとルエキラは思った。  テアとの結婚を決意したときから、ルエキラは出世というものから切り離されたからだ。  王宮と神殿はウィルカを見下ろす丘に併設こそされてはいたが、ふたつは相入れない存在だ。  王宮は政治を神殿は祭事をそれぞれ司っている。王宮はあくまで神殿から派生した政治のための機関であり、王や王宮はネの国をむだなく営むために存在するのである。  尖耳族にとって肝心なのは、この地上ではなく『約束の地』と呼ばれるラバァタ神が導いてくれるはずであるところへ行くための償いをすることである。  最終的な決定権は神殿の最長老が握っている。  しかし、この地に流されてから長い年月が流れ、仮の機関であったはずの王宮が力をもち始めたとき、両者の間に不分立が生まれた。それぞれの役目を誠実に果すことこそ、ラバァタ神への一番の信仰である。しかし、王宮ならびに神殿はお互いの内部について一切の介入を許さないー有事のとき以外は。つまり、馴れ合いはしないのだ。  王宮から妻を娶るということは神官のなかに前例がなかったのだ……それはいくらルエキラの人柄が知れているとは言え多少の色眼鏡で見られることは否めないのだ。  不安がないといえば嘘になる。しかし、これからの新しい生活について考えるとルエキラはほほ笑まずにいられない。今日、テア姫は自分の妻になるのだから。  緩みかけた頬がとたんに引きつった。背中に冷水を浴びせられたような、全神経が集まるような感覚。かすかに肌が粟だった。  奴が来たのだ。
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