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「コラ、やめなさい」
「でもー、いいんですかー?」
「なにが?」
脈絡のない問い。見当がつかず眉をひそめて視線を遣れば、向けられていたのはどこか不満気な顔。
時成は片頬を伸ばした自身の腕に乗せたまま、
「夏休みになってから沢山シフト出てくれてるの、おれはいっぱい会えるんで嬉しいですけどー、それってそれだけカイさんを放置してるってコトですよねー?」
「……別に、放置してるワケじゃないけど」
「だって最後に会ったのって五日前ですよねー!? 付き合いたてですよー! ホヤホヤですよー! 職場が近いんだから、もっと会ったっていいじゃないですかー!」
どうしてそう、お前が駄々をこねるんだ。
嘆息しそうになるのをギリギリで抑え、最小限の動きで時成から視線を外した。俺は呆れ顔を作り、再び鏡を覗き込む。
大丈夫。頬は引きつっていない。
微かな安堵は胸中で。なぜならば実のところ、時成の言葉は無理やり押し込めた微かな陰りを、全力の無邪気さで連れ出してくるから。
――もっと会いたい。
そんな本音は綺麗に畳んでしまって。
俺はただ、普段の調子でもっともな理由を舌に乗せる。
「付き合って、すぐ夏休みに入ったからな。カイさんも忙しいんだよ。あの店の人気ドコロだろ?」
「まぁ、それはそうですけどー……」
「お互いの生活ってモンがあるし、暫くは仕事優先。それと、今日この後、会う約束してるから安心しろ」
閉じた手鏡とポーチを片手に持ち、立ち上がった俺は時成の後頭部を指後ろでコツリと叩いてから、自身の荷物置きへと歩を進める。
「つーわけで、今日は延長無理だから。……心配してくれてありがとな」
時計を確認すると、針は思っていたよりも先の時刻を示している。
そろそろ戻らないと。
キャラメル色の鞄に荷物をしまい、くるりと向き直ると、どうにも不満気なジト目とかち合った。
思わず面食らった俺に、時成は上体を起こしながらわかりやすく頬を膨らませ、
「あの時の必死な先輩は、どこにいったんですかねー」
確かに、カイさんに近づこうと必死になっていた数ヶ月前が、なんだか既に懐かしい。
つい零れそうになった苦笑を押し込み、代わりに余裕たっぷりの笑みを口元に浮かべてやる。
「大人なんだよ」
"ユウ"の休息時間はここまで。
顔を切り替えて、フロアへと戻るべく開いた扉をくぐり、後ろ手に閉める。
「……それでいいんですかー」
完全に閉まる直前、向こう側から届いたふて腐れたような声は、聞かなかったことにした。
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