彼は特別の意味に気づかない

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 全て片付け終わったあと、甲斐が柔らかく天音の頭を撫でて「ありがとう」と言った。そうしてカウンターを先に出て行くと、ひとつだけあるテーブル席に腰を預けた。それから首を傾げた。 「どうしたの? 天音ちゃん」  天音がいつまでもくすぐったそうにシンクの前に居ることが甲斐は不思議だった。 「秘密です」  と言った天音の綺麗な横顔を見つめながら、うっかり甲斐は篤のことを考えてしまった。あの夏の日の、あの篤の思い切った行動、どうして彼はそんなことをしたのだろうか。貪欲で強欲な篤、十年待てると言い切ったくせに。今だって彼は天音のことが好きで大事で追いかけ回している。篤は何も言わないから彼の気持ちを知らなければ読めそうにもない。けれども、天音が今ここに居るのは篤のおかげだ。だから余計に不思議だが、彼はきっとどんなに問い詰めても言わないだろうと甲斐は思う。  今甲斐が抱えている天音への愛情は恋愛ではなくて親愛であった。彼には歳の離れた活発で豪快な姉がいる。妹が欲しいと思ったことはなかったけれど、歳の離れた妹がいたらきっとこんな感じなのだろう。  変わらず美しい彼女への想いは永遠の愛、目の前に居る美しい天音への想いは愛おしさ、他にも様々な想いが彼の中で一つずつ切り離されて別々の引き出しに仕舞われてしまっていた。殆ど開けない引き出しが多いから、彼は直面している天音を妹のようにしか思えない。  鈍感なりに篤は何かに気づいているのだろう。けれども目前の幸せの方が大事だ。まるで大人顔負けで、美しくとも男勝りだとも普通の二十歳の女の子。他の連中とは少し違う形のような気がするが、自分に懐いてくれている愛らしい女の子。それが今の天音である。それ以上でもそれ以下でもなく、他を求めようとも思わない。理屈で物事を仕分けた結果、甲斐が必要としている暮らしが今はこの形というだけだ。充分満足している。  漸く甲斐の隣へ腰を掛けた天音が言った。 「甲斐さんと二人きりで話すの初めてかも」  基本的に天音がバイトおわりにやってくる時間帯は一番に賑やかな頃合いだ。隅の席で甲斐綺麗な手を見つめていても、結局は見知りの常連たちに混じってはしゃいで帰っていく。 「天音ちゃんがここに来はじめて1年経つのにね」  そうして天音がしみじみと「なんだか不思議」と呟いた。  
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