語らいは必要としない

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 一年前、天音の引っ越しを奏と篤が文句を垂れながら手伝った後、奏をひとり彼女の部屋に置き去りにして篤は天音を連れ出した。  奏はまるで気にしない。彼はあくまで自分に見せる天音だけを知れればいい。それが彼の宝物となる。  ただ、一人残された彼女の部屋で、これからの生活に対する切なさは覚えた。  これからはどんなに苦しくなっても我慢を要するばかりである。  苦しい時、少しだけそれを取り除いてくれる天音との日常は終わってしまった。二人の地元と彼女がこれから住むこの街は遠い。  これからはきっと、今までと違う苦しみも伴うのだろうと奏は思う。  その日、篤から知らせを受けていた神田たちは揃ってcometへ赴いていた。  自分たちの美しい彼女を馳せて語らうことなく、いつも通りに賑やかに酒を煽る。  性格はまちまちだが、彼らは揃ってしまうととにかく賑やかだ。  甲斐はそんな彼らのそんな姿をひどく好む。変化をあまり好まない彼にとって、まるで変わらない安定した自分たちの関係は安心感を齎らす。  もちろん全員、気持ちは昂ぶっていた。  待ち焦がれるあの人に会えるのだから。  例え彼女が自分たちを知らなくても、きっと落胆はしない。もし彼女が自分たちを受け入れてくれたなら、楽しく共に過ごしていければ充分だ。  ずっと待ち続けていたのは、彼女が自分たちを思い出してくれることではなくて、彼女と過ごす日々にある。  からんとドアが開き、篤が顔を覗かせた。顰めた顔で来るくらいなら連れて来なければよかったじゃないかと甲斐は呆れた。 「駿河、連れてきてやった」  いつもの太々しさにため息を吐いた後、全員が思った。  きっと甲斐はグラスを割る。  よりにもよってどうして今カクテルグラスを手にしているのか。しかもショートドリンク用の脚のあるものだ。そして甲斐は置こうとしない。  不機嫌そうに中に入って来た篤の後から天音が姿を現わすと、甲斐は彼らしい柔らかな面持ちで微笑んだ。 「駿河天音ちゃん」  目を細めて呼び掛けた一瞬後、案の定甲斐は馬鹿力でグラスの脚をぽきっと折った。シンクでがしゃんと音が鳴る。  変わらぬ彼女の姿に安堵を覚えながらも、間抜けにも程があると全員が甲斐に哀れな視線を送った。  一連の出来事に呆気に取られた後、天音がくすくす笑いだした。  それはみんなの知る美しい彼女の顔だった。 「甲斐さん、本当に馬鹿力なのね」  可笑しそうに天音が言うと、流石に甲斐はばつが悪かった。  一度電話で話した。だから二人には「はじめまして」という言葉が必要ない。  けれども彼女だけど彼女じゃないかもしれない天音に甲斐は初めて会った。  彼を覚えていない彼女は初めて甲斐に会った。  甲斐は相変わらず美しい彼女に一瞬見惚れ、そうしたら何故か手に力が入ってしまい、うっかりグラスを割った。どうしてそうなるのかわからない。変わらぬ姿に安心感を覚えたつもりだった。 「じゃあ、俺帰る」  篤のひどく不機嫌なこの様子が何を意味するかを全員が知っている。  これは何かしら拗ねている。  面倒くさいなとは思いながらも一応天音が引き留めてみると、篤が言った。 「あのな、奏も俺も明日用事があるんだよ」 「手伝ってくれてありがとう。先生」 「労いの言葉が足りない」 「そこまであたし、こき使ってない」  なんやかんやと言い出した二人のさまは天音の方が強いように見えて、何だかんだで相変わらずなのだなと思うと誰もが懐かしみを感じた。  天音が篤のことを先生と呼んでいることが可笑しくてまちまちに笑い転げたが、口論している二人は気に留めすらしない。  笑いを収めた親友たちの呆れた痛い視線に堪らず、遂に篤が逃げるように店を出ていった。  ドアの前に天音がぽつりと残された。 「皆さん、先生の親友だって聞いたわ。あの変人の親友なんて大変じゃないですか?」  その変人に恋をしていた自分を棚に上げて天音が歯に絹着せずそう言うと、神田と甲斐が声を揃えて「面倒くさい!」と言ったから、天音は思わず哀れんでしまった。  誠が笑いだした。迅はまるで同意だという顔をしていて、玲二はどこか嬉しそうだ。
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