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きれいな夕日が見えたら、次の日は晴れる。言い伝え通り、今日は文句なしの晴天だ。
「では、行ってきます……お館」
斯人は扉の前で深々と頭を下げると、六年ぶりの外へと足を踏み出した。予想以上のまぶしさに、目をつぶる。
「大丈夫?」
「慣れてくるとは思います」
斯人はジャケットを脱いで、シャツに栞付きリボンタイを結んだだけの格好だ。さすがに、燕尾襟つきのテーラージャケットは人目につく。
「それにしても、詩音はどうしてまた、この森に入ったんですか」
「お父様と喧嘩しちゃって。でも、おかげで斯人くんに出会えてよかった」
「そうですか」
斯人は町へ下りる道を覚えているらしく、詩音と遜色ない足取りで歩を進めていく。やがて、木立を抜けると、斯人は嘆声を漏らした。
「懐かしい……ような、新鮮なような。複雑ですね」
「六年ぶりだもの、もう新しい世界みたいに感じるでしょ」
しきりにきょろきょろしながら、斯人は詩音について歩いた。
「この辺りはあまり覚えていません……あっ、もしかしてあれですか?」
斯人が車道を挟んで向かいの道を指さしながら、青信号の横断歩道を渡ろうとした。その時、
「危ない!」
詩音が慌てて斯人の腕をつかんで引っ張った。二人の目前で、車道の端を歩道の延長線と勘違いしているのか、信号を無視した自転車が走り去った。
「もう、危ないじゃない、ちゃんと周りを見ないと」
「青信号でしたよね」
「それでも! 右見て、左見て、もう一度右見て、渡るの!」
長らく道路に出ていなかった斯人は、そのあたりの感覚が欠如しているらしい。詩音の言いつけに素直に従って安全確認した後、斯人は改めて道を渡った。
そして到着したのは、今も花びらを舞わせる桜並木が植えられた歩道。人々が一瞥もくれずに通り過ぎる街路樹の一端で、斯人は満開の桜を恍惚と見上げていた。
「きれいでしょう?」
「きれいです……薄い花びらが、日の光の中で輝いて……詩音が言ったとおりです」
斯人は、この世の全てに意識をつなげるように瞑目した。
「枝が揺れる音、乾いた晴れの香り、日差しの温かみ……。ああ、忘れていました。これが……世界なんですね」
その言葉に、詩音は心が震えるのを感じた。彼女が何の気なしに過ごしてきたこの世界は、斯人が長く長く待ち望んでいた、尊いものだったのだ。今、積年の憧れの真ん中に立った彼の心中たるや、詩音にははかり知ることができないだろう。
斯人はそっとまぶたを上げると、詩音を見つめ、花の色より淡い淡い笑みを浮かべた。
「ありがとうございます、詩音。あなたのせいで自由になれて、よかった」
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