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三階の生活空間は、階段がある本館だけでなく両翼にも広がっているようだった。台所があるのは、入口から見て左の棟だ。
ようやく台所を使用可能な状態にしたころには、斯人の我慢も限界に近づいていた。
「詩音、もういいです。食べましょう、買ってきたもの、そのまま」
「だめだよ! 斯人くんは絶食後なんだから、ちゃんとお粥にするの! というか、卵とニンジン、生だよ!?」
幸い、鍋などもそのままあったので、軽くすすいで使うことにした。詩音はスーパーで購入した白米と卵、ニンジンを袋から取り出し、そこでふと疑問を覚えた。
「水と電気って、どうやって引いてるの?」
「電気ではなく、霊力をエネルギーに変換して使っています。水はこっそり引いていますが」
「霊力で動く電化製品ってどこで買えるの……まあいいや。とりあえず、まずはお湯を沸かします。斯人くん、その間にニンジン切……れる?」
頼みかけて、語尾は疑問形に終わった。よく考えれば、詩音が十歳の時は、包丁など持ったことがなかった。料理に興味が出だしたのは中学三年生ごろだ。心配する詩音の前で、棚から包丁を取り出した斯人は「こうですか?」と勢いよく刃を振りおろした。
「きゃあぁー!?」
「な!?」
「そんな切り方! 危ない! 手を切っちゃうし、ニンジンが宙を舞うよ!?」
「今の声、もしかして詩音ですか? 切られたニンジンの断末魔かと思いましたよ」
「マンドラゴラ!?」
冷や汗たらたらの詩音が、「手は猫の手!」「野菜は押し切り!」と教授するが、台所に立つのも初めての斯人はぎこちない。
詩音は、ほんの意趣返しの気持ちで、ちょうど同じ文言を引用してため息をこぼした。
「ああ、斯人くん。あなたがこれほどまで無能だとは思わなかったよ」
「ということは、あなたの目や耳やカリウムチャネルは節穴だったのですね。まあ、だろうとは思いました」
「だろうと思ったの!?」
結局言い負けた詩音は、
「もう、そうじゃないってば! こう、だよ!」
無気になって斯人の後ろに回ると、包丁を持つ彼の手に右手を重ねた。反対の左手は、やはり斯人の左手をつかみ、猫の手になるよう指の形を作らせる。
「こうやって野菜を押さえる! 包丁はこう! 動きを覚えて!」
背中から前に腕を回し、斯人の両手を動かす。まるで二人羽織だ。ようやく斯人自身で正しい動きを作れるようになると、詩音はホッとすると同時に我に返った。異性の背中にぴったりと密着し、手を取っていた自分の体勢を客観的に見直して、彼女は瞬く間に赤面した。
(わ、わたしったら、必死だったとはいえ、なんてことを……!)
「詩音、水が泡立っています。これは沸騰ではありませんか?」
詩音とは対照的に冷静な斯人が指摘する。なぜ落ち着き払っていられるのかと解せない気分で、詩音は鍋に白米を投入した。
「残りのニンジンはわたしがみじん切りにするから、卵を割ってくれる? これくらいならできるよね?」
「割ればいいんですよね。こうやって」
台の角に思い切りぶつけられた卵は、あっけなく崩壊した。
「ああーっ、もう! 力入れすぎ! あと、卵は平面に打ち付けるの! わたしがやるから、斯人くんは台を拭いて!」
あわただしくも調理は進んでいき、ようやく二人分のニンジン卵粥が完成した。
「今さらだけど、館内で食べていいの?」
「三階の、ここならいいですよ」
椅子が三脚入れられた、四角いテーブルが食卓らしい。二人は向かい合うように座って、木製のさじをとった。
「いただきまーす!」
「いただきます……んぐ!?」
「え、どしたの!?」
一口食べた斯人が、慌てて口を押える。ぎゅっとつぶった目じりに、わずかに涙が浮かんでいた。
「熱い……っ」
「あたりまえだよ! まさか、やけどしたの?」
「ヒリヒリします……せ、責任とってください」
「法廷で証言してもいいくらい自信あるけど、わたし悪くないよね。もう……お水とってくるから」
台所に戻りながら、詩音はおかしくなって、くすくすと笑った。出会ったときは、人間離れした完璧さを醸し出していた斯人。実際、仕事も手際がいい。なのに、横断歩道の渡り方も危なっかしくて、料理はからっきし。あげくに食べ物でやけどするなど、まるで子供だ。
「子供、なんだろうな」
蛇口をひねりながら、詩音はそうひとりごちた。
六年間、仕事だけに従事してきた彼は、その間、あらゆる面での時が止まっていたのだ。いくら業務が玄人の腕だとしても、彼の中には、未熟な十歳の子供の部分が多く残されている。
(……たくさん、いろんなことを教えてあげたいな)
春休みがもう残りわずかなのが、悔しくてもどかしくもあった。
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