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目が覚めたのは、夜中の一時だった。
早めに床に就いたからか、もう一度眠れる気がしなくて、詩音は体を起こした。起きてすぐに頭に浮かんだのは、帰り際に挨拶もできなかった疲れ気味の仕書のこと。
「大丈夫かな、斯人くん……仕事に支障とか出てないかな」
書寂館は開館している時間だ。詩音は思い切って着替えると、そっと家を抜け出した。
夜の森は、まるで混沌とした別世界のような不気味さがあった。書寂館で幽霊を見て慣れてしまった詩音は、お化けの出現など少しも恐れてはいないが、長居したい雰囲気ではない。小走りで書寂館にやってくると、静かな喧騒を期待して戸を開いた。
しかし、詩音を待っていたのは、昼間と同じがらんと空いた館内だった。利用者が一人もいなければ、仕書の姿もない。
「……斯人くん?」
呼んでも返事は帰ってこない。さすがに、まだ寝ているということはあるまい。
「ハク、いる?」
式の名も呼んでみるが、やはり詩音の声は残響の後、消えてそのまま終わるだけだった。
「何かあったのかな……そうだ、書寂館! 何か知らない?」
見えないもう一つの存在、この図書館自体に問うてみるが、何の反応も示さない。書寂館は常に存在している以上、必ず聞こえているはずだ。無視しているのだろう。彼にとって、詩音は無理やり契約の一部を破棄させ、斯人を奪った天敵である。この反応はさもありなんといったところだ。
詩音は館内をうろついた。書架の林のどこにも、人影はない。今日は休館だろうか。
ついに、今まで来たことがない最奥部にたどり着いた。ちょうど階段の裏にあたるところで、入ってきた入り口は見えない。そんなフロアの果てに、異様な扉があった。
有り体に言えば、洋書の表紙のような外見をしていた。深い茶色の地に、金色の額縁のようなデザイン。額縁の四隅には曲線で形作られた模様が配置されている。中央にはタイトルのように何か書かれているが、言語も不明なうえに記号のようなカリグラフィで、一つも読めない。それでも、壁にはめ込まれた本のオブジェではなく、扉だと認識できたのは、金のドアノブがついていたからだ。
「この奥は……書庫かな」
詩音は扉をそっと引いてみた。すると、まるで本物の書物のように、表紙についてページがパラパラとめくられて、詩音は立ち尽くした。
「ドア……だよね?」
数十枚めくられたところで、まばゆい光が見えた。昼間のような明るさだ。というよりも、そこは昼の世界そのものだった。
足を踏み出すと、後ろでページが走る音がして、扉が閉まった。
「夜なのに、昼間……。まさか、ここがあの世……!?」
想像と全く違う景色に、詩音は驚嘆した。桜の木や、立ち並ぶ平屋は現世と同じで、しかし車道ほどの広さの道はなく、電柱も立っていない。まるで一昔前の日本のようだ。
おっかなびっくり歩いていくと、三人の少女たちとすれ違った。小学校の低学年ほどの彼女らは、地面を滑るように、音もなく走り去っていく。それがこの世界が何たるかの証明だ。
「……あの歳で、死んじゃったんだ……」
死者への恐れはなく、詩音はただ、そんな痛みを覚えた。
なおも歩みを進めていくと、大きな広場が見えてきた。緑の芝がしきつめられた公園だ。そこに、人だかりができている。興味をそそられ、そちらへと足を向けた、刹那。
全身の毛が逆立つような、耳障りな笑い声が頭上で響いた。
心臓を鷲掴まれたような悪寒とともに天を振り仰ぐと、黒い不定形な物体が三つ浮いていた。目はない。鼻もない。だが、大きく裂けた口から歯がのぞいている。笑い声は、それらから発せられていた。本能が危険を察知した。
慌てて走り出すと、地面に映った三つの影は追いかけてきた。しかも、影は徐々に大きくなっている――地面に近づいてきている。それに気を取られたからか、足がもつれて、詩音は転倒した。
「きゃっ!?」
倒れたまま体をよじって見ると、黒い物体がにじりよってくるところだった。どこからか、「出た!」「逃げろ!」と声がする。獲物を前にした黒い物体は、満悦そうに高笑った。高音と低音、男声と女声が重なったような、歪な不協和音。不気味な口は、詩音を飲み込むのも造作ないだろう大きさだ。
襲われる――体の温度が一気に冷え込んだ、次の瞬間。
ドドドド、という衝撃とともに、黒い巨体に何かが撃ち込まれた。呆然としているうちに、一体が消し飛ぶ。残りの二体が我先にと詩音に襲い掛かるが、それより早く、間に滑り込む姿があった。背中のテールが揺れる。
彼は手元から光弾を放っているように見えた。それらが敵に次々と着弾し、存在ごと消し去る。三体とも葬ると、周りから歓声が沸いた。
「よっ、さすが仕書だ!」
「助かったぜー!」
彼はそれに見向きもせず、振り向くと、
「詩音! どうしてここにいるんです!」
怒る、というより、叱る口調で糾弾した。詩音は目をしばたたかせて、
「え、ごめん、書寂館の奥の扉を開けたら、ここに……」
「あの扉は術で閉め切っておいたはずなのに……無理やり解いたというのですか?」
「術? 何のこと? 普通に開いたよ?」
「……無意識に発動するタイプなのでしょうか、詩音は……。まあ、この際もういいでしょう。でも、今後は断りもなく彼此の扉を開けたりしないでください」
斯人は大きく息をついた。詩音は「ひし?」と首をかしげる。
「彼岸と此岸をつなぐ扉です。ここは死後の世界ですよ。迷い込んで出られなくなったら神隠しです。さあ、早く帰りなさい……と言いたいところですが、またアレに襲われても難儀ですし、だからといって仕事中の僕がこれ以上持ち場を離れて送っていくのもいかがなものかと思いますので、ひとまず僕についていてください。勝手にどこかへ行かないこと。いいですね」
「はーい。……ところで、さっきの黒いのは何? めちゃくちゃ怖かったんだけど……」
「アヤメです」
「アヤメ?」
公園の奥に戻る斯人は、ついていく詩音に道すがら説明した。
アヤメは、平たく言えば悪霊。名前の所以は、曰く、『文目』も知らず――つまり道理や善悪の区別なく、他の魂を襲うから。曰く、黄色い『菖蒲』の花言葉である復讐を連想させるから。曰く、魂を『殺め』るから。
「アヤメは、元は人間の霊なんです。あの世の人々というのは、基本的に穏やかなのですが、並々ならぬ執念、負の感情をもっていると、あのような化け物に変貌します。そうなったら最後、もう戻らないので、元々人間の霊だったなどと情けをかけることなく消すしかないんですよ」
「そうなんだ……。もしあのまま襲われていたらどうなっていたのかな」
「それについては色々聞きますね。魂ごと消滅する、際限ない苦しみに襲われる、襲われた霊もまたアヤメになる……まあ、ろくなことがないので気を付けてください」
「は、はい……」
うすら寒さを覚えながら到着した公園の奥地。そこには、六台連結された大きなブックトラックと、白いクロスがひかれたテーブルがあった。ブックトラックの取っ手にはワシミミズク姿のハクが止まっている。
斯人は詩音に「大人しくしていてください」と言いおくと、仕事を再開した。テーブルをカウンター代わりに、ここで貸出や返却の業務を行っているようだ。いわゆる移動図書館である。
詩音はカウンターの奥で、斯人に譲られたパイプ椅子に腰かけて、その光景を見ていた。当初、見ているだけの時間は、退屈なものになるかと思われたが、ひとたび斯人が動き出すと、たちまち詩音は釘づけになった。
丁寧に用件を聞くところから始まり、貸出希望の本と利用カードを流れるような所作で受け取ると、無駄のない動きで素早く記帳し、恭しく相手に手渡す。全ての動作が完璧だった。まるで磨き抜かれた演劇か舞踊のように美しい。
返却希望の利用者が来ても、本の所在を問われても、利用上の質問を矢継ぎ早に投げかけられても、そのリズムは崩れなかった。時々、詩音を誰何する者もいたが、斯人は当り障りのない答えを返して、順番待ちの人を待たせない。
たどたどしい子供のような斯人は、ここにはいない。彼は今、文句のつけようもないほど熟達した、一人前の司書だ。その姿が、詩音にはまぶしくて仕方なかった。
不意に、彼の髪が栗色のロングヘアに見えた。ペンやメモをポケットに詰めたエプロンが重なった。ちらりと見えた名札には、「白柳寺」と書かれている。彼女は、多忙など吹き飛ばす笑顔でくるくると動いていた。心の底から楽しそうに、本と、本を愛する人々に囲まれて働いていた。――そんな白昼夢を見た。
詩音は思った。あの諍いは間違っていなかったと。進路希望調査を手にして父のもとを訪れたあの日。もし父の言いなりになって、盲目的に跡継ぎを選んでいたなら、こんな輝きを永久に手放していただろう。
時間にして二時間たらず。斯人の閉館宣言で、本日の移動図書館は幕を閉じた。詩音は心の中で、主演の仕書に最大の拍手を送った。
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