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「僕たちが今晩、書寂館を空けていたのは、この移動図書館のためです」
人がはけた公園で、後片付けをしながら、斯人は言う。
「前に、彼岸では望めばどこへでも行けるといいましたね。ですが、わざわざ書寂館へ行くくらいなら本など読まなくてもいい、と考える方もいらっしゃいます。あるいは、一時的にせよ、此岸に戻るのを厭う方や、思い切りしゃべりながら誰かと本を眺めたい方など、書寂館を避ける理由は様々です。そんな方々にもサービスを提供するため、不定期ながら予告制で、こうして彼岸へ出向くのです」
「なるほどね」
手伝いながら、詩音。
「斯人くん、こっちの世界なら外に出られるんでしょう? だったら、桜も町の景色も、そんなにお預けだったわけじゃないよね」
「今はこちらにいるからそう思うのでしょうが、帰って気づくと思います。この世界の風景もにおいも、何もかもが曖昧にぼかされていくのを」
「……どういうこと?」
「彼岸というのは、境界の曖昧な世界なんです。距離が曖昧だからどこへでもいける。感情が曖昧だから穏やかでいられる。そんな不確かな世界のことは、現世に戻るとあまり覚えていないんです。まるで前の晩に見た夢のように。だから、僕は現世の、本物の外の世界に触れたかったんです」
「そうだったんだ……」
言われてみれば、周りの風景はハレーションのように少し不鮮明だ。空の色も、よく見るとピンクがかってふわふわした色彩に見える。かと思えば、そうでもないようにも見える。
「でも、これはこれで素敵な世界。また来たいな。それで、今度は仕事を手伝いたい」
「詩音はもう来ないほうがいいです」
予想外にぴしゃりと言われ、本を整頓していた詩音の手が泳いだ。
「ど、どうして?」
「あなたや僕のような生きた人間は、彼此の扉で霊体化されるとはいえ、魂が濃いんです。そういうのは、アヤメに狙われますから」
「え……じゃあ、わたしや斯人くん、狙われやすいの?」
「そういうことです。僕は護身できますが、あなたはそうではないのだから、来ないほうが……」
斯人の顔に緊張が走った。詩音も体をこわばらせる。
四方八方で、高笑いが聞こえる。初めは見えなかったが、一体、また一体と姿を現していく、アヤメ。その数、片手の指では足りない。
「くっ……噂をすれば、ですか。詩音、僕から離れないでください」
横目で詩音を見る斯人の目の色が徐々に変わっていく。暗い色の虹彩が、ハクのそれのような金色に染まるのを見て固まる詩音に、斯人は「戦闘時は少々不気味な目ですみません」と断った。彼はそう言うが、詩音のほうは不気味だなどとは一つも思わなかった。むしろ神々しささえ感じる、というのが率直な感想だ。
斯人は突然、手のひらを上に向けて空中に差し出した。そこにキラキラとポリゴンの粒子が集まると、一つの道具に姿を変える。斯人の手にも余るほどの、大きな紙綴器だ。
「ホチキス……!?」
「僕はステープラーという呼称のほうが気に入っているので、そう呼びますが、これはただのステープラーではありません。霊力を打ち出す武器です」
言って、彼はそれを数回、素早く握った。その回数分、光の弾が撃ちだされ、アヤメに命中する。着弾したところからボロボロと崩れていくアヤメは、次のとどめで雲散霧消した。
だが、それらはのべつ幕なしに襲ってくる。弾丸では攻撃範囲が狭いと踏んだ斯人は、横一直線に並んだアヤメをなぞるように、閉じたままのホチキスを薙いだ。光線がアヤメの群れを水平にスライスする。
頭上では、ハクも応戦していた。光をまとった翼やくちばしで一体ずつ相手にしている。
「普段はこんな大群では来ないのに。詩音の魂に引き寄せられましたかね……」
忌々しげな斯人の背中に隠れながら、詩音はハラハラと様子を見守っていた。と、背後で物音がして、振り向く。
「本が!」
書架代わりの大型ブックトラックに並べられた本が、アヤメに蹴落とされた。開かれたまま地面にたたきつけられ、ページが折れかけているものもある。咄嗟に拾おうと駆け寄る詩音の目前に、アヤメが迫った。
「詩音!」
気を取られた斯人の右腕にアヤメが噛みついた。肘から先は気味の悪い口の中だ。斯人は嫌な汗をかきながら、アヤメの口腔内で弾を放つ。数発お見舞いして、ようやく解放されるも、詩音には手が届かない。
アヤメが大口を開いた。憐れな魂を頭から呑もうとする。斯人は間に合わない。空中のハクも間に合わない。
頭をかばった詩音の腕に、アヤメの歯が突き立てられた。そして、そのまま黒い口腔に飲み込まれる――誰もがそう思った。
「え……」
本人よりも先に、斯人が状況を理解した。確かに、アヤメの歯は詩音の腕をとらえた。だが、接したところから、まるで斯人の光弾を食らったように、アヤメの方が壊れていく。そこでようやく、詩音も何が起こっているかを把握した。
「た、助かった……?」
もう欠片ほどしか残っていないアヤメに無慈悲な光弾が撃ち込まれ、ようやく全てが駆逐された。
斯人はどっと疲れたように息をつくと、怪訝そうな顔で詩音を見つめた。目はいつもの色に戻っている。
「あなた……やっぱり、何か霊力をもっていますよね」
「そう……なのかな?」
「素手でアヤメに対抗できるなど……。体にまとうタイプでしょうか……? いえ、それは後です。詩音、僕言いましたよね。離れるなと」
「あ……」
憤然たる面持ちで、斯人は詩音をにらむ。委縮する詩音をしばらく叱責の目で射止めていたが、やがて諦めたように視線をそらした。
「……まあ、今回はいいでしょう。自己責任、とったんですし」
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