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「ここまで見られた以上は、話さなければならないでしょう。ただし、他言無用です」
彼は詩音を見下ろして静かに言った。ソファに腰を下ろした詩音は、もちろん、とうなずく。
「きっと話したところで、わたしが変人扱いされるだけだもの」
「よろしい。僕の名は日比谷斯人。念のため言っておきますが、この世の人間です。ここは国内で唯一、あの世へのサービスを行う図書館。名を、書寂館といいます」
こういう字を書きます、と斯人が空書するのを見て、詩音は感嘆を漏らした。
「書寂館……書籍館みたい!」
日本最初の公立図書館の名に、斯人はわずかに目を見張った。
「公共図書館宣言しかり、やけに詳しいですね」
「わたし、将来は司書になりたいの。今から独学しているから、ほかの子より断然よく知ってるよ」
「昨日の今日で、よくまあ僕の前で言えますね。図書館学の前に身の程について勉強されてはいかがですか」
「言い方!」
声を荒らげる詩音を無視して、斯人は説明に戻る。
「あの世の人々は満たされています。望めば食べられ、住め、どこへでも行ける。物欲に狂うこともない、穏やかな世界で過ごしている彼らが、最後に欲すものは何だと思いますか?」
詩音は思わず、小さく口を開いた。それだけで、斯人には伝わったらしく、彼はおもむろにうなずいた。
「そう、『知ること』です。アリストテレスは言いました。『人は皆、生まれながらに知ることを欲する』と。あなたもご存じの通り、誰もが皆、差別なく平等に図書館を利用する権利をもっている。それは彼岸の人間も同じです。住んでいる世界が違うからといって、知へと伸ばされたその手をどうして振り払うことができましょうか」
彼の口ぶりに、詩音は崇高な志を見た。熟考するより先に尋ねる。
「もしかして……あなたは、ここの司書?」
通常なら到底務められる歳ではないが、ここは尋常から外れた図書館だ。常識などより、彼の知識、理念、立ち振る舞いのほうがよほど信じられる。しかし、彼の返事は詩音の予想をはるかに上回った。
「僕は書を司る司書ではありません。図書館に仕える、仕書です」
「仕書? 図書館に仕える? どういうこと? まるで、図書館が人間みたいに……」
「ランガナタンの五法則は言えますか?」
ランガナタンは、インド図書館学の父と呼ばれる著名な学者だ。彼が記した「図書館学の五法則」は、司書を目指す者なら一度は目にする。
詩音もまた、その一人だ。これなら、全て諳んじることができる。
「確か……一、『図書は利用するためのものである』。二、『いずれの読者にもすべて、その人の図書を』。三、『いずれの図書にもすべて、その読者を』。四、『図書館利用者の時間を節約せよ』。五、『図書館は成長する有機体である』」
「ええ、その通りです」
斯人は満足げにうなずくと、高い天井をふりさけみた。
「『図書館は成長する有機体である』。彼は、図書館の新しきを取り入れるさまを、古きを淘汰するさまを、生物のアナロジーでそう表現したのでしょうが、言い得て妙です。彼が真実を知っていたのかどうかは定かではありません。ですが、事実としてこの図書館は――生きているのです」
にわかには信じがたい話だった。彼は、比喩でも誇張でもなく、図書館が生きていると断言したのだ。それでは、詩音と斯人、そしてあの世の利用者たちは、生き物の腹の中にいるというのか。当然、建物は微動だにしない。呼吸も心拍も感じない。だが、斯人の言葉を全て狂言としようにも、そうできない証拠が今も足音を立てずに詩音の目の前を通り過ぎていく。
「……図書館が、生きている。それに仕えているのが、日比谷くん……。じゃあ、それは仕事服?」
「ええ、仕書の制服です。ちなみに、このリボンタイについている栞は身分証明のようなものです」
「へえ、大切なものなんだ。……仕書って、日比谷くん一人だけ?」
「はい。仕書は世襲制なんです」
「……ご両親は……」
「とうの昔に亡くなりました」
斯人は目を眇めて、わずかに眉根を寄せた。慌てて謝る詩音に、斯人は沈着して「構いません」と答える。
「じゃあ、ずっと一人で……」
「そうですね」
「大変だね。学校もあるだろうに……」
「学校は行ってませんよ。十歳で仕書を継ぐと同時に辞めました。その後は、全て本から学ぶことで補っています」
「えっ」
「仕事のこともありますが、そもそも、僕はここから出られないんです。僕は仕書になるとき、書寂館……僕は敬意を表して、お館と呼んでいますが、彼と契約を交わしました。その結果、僕が得た加護は、飲まず食わず不眠不休で生きられる体と、読んだものを全て覚える能力です。勤勉な日本人らしい加護ですね」
平然と語っているが、永久機関と化した彼はもはや「この世の人間」といっていいものか。
「というか、ユネスコ公共図書館宣言のあれ、その能力で覚えたってこと? ずるい……」
「話がずれています。ともかく、僕は図書館からの加護を得た。ですが、契約は取引です。僕は代わりに自由を失いました。書寂館とは、代々の仕書を館内に軟禁して奉仕させる図書館なのです」
詩音は思わず立ち上がった。唇が震える。
「軟、禁……って」
「僕は十歳からこちら、一歩も外に出ていません。お館は決して、それを許さないのです」
「ひどい……」
「仕方ありません。これが仕書の子として生まれた宿命ですから。書寂館の維持に欠かせない存在として、奉仕することに人生を注ぐ。まあ、おかげで排気ガスやら花粉やら、ろくでもないものにまみれずにすみますが」
「そ、そんなに汚い町じゃないよ、ここ! 緑花公園にはたくさんのお花が咲いているし、雛川では夏に水遊びができるし、素晴らしい町なんだから!」
「知ってますよ」
斯人は夜の静けさに似た声で言った。
「緑花公園の、季節の花コーナーが好きでした。雛川のせせらぎによく耳を傾けていました。僕が生まれ育ったこの町は素晴らしい。僕の存在が消えてから六年、その間にきっと、たくさんの素晴らしいものが新しく生まれたことでしょう」
「――……」
彼の切なげな瞳は、窓の外に向けられていた。ガラスの向こう、果てしなく広がっているはずの世界を見ていた。それだけで、詩音はかける言葉を失った。いくそばくの辞を用意したところで、囚われの仕書を救うことはできない。
それなら、せめて。外の世界へ出られないなら、外の世界を連れて来よう。それができるのは、ただ一人。
「日比谷くん、わたし――」
詩音にかぶさるように、別の声が斯人を呼んだ。利用者の一人だ。和服姿の若い女性が、本のありかを聞いている。詩音への解説を熱心に行ってくれていた斯人だが、執務の真っただ中だったのだ。
「――ご案内します。恐れ入りますが、少々お待ちください」
相変わらず愛想はないが、文句なしの丁寧な口調で応じた斯人は、詩音を振り返った。
「すみません、何か言いかけましたね」
聞こえなかったかと諦めかけていた詩音だったが、斯人はきちんと声を拾ってくれていたようだ。それだけで嬉しくなって、笑みがこぼれる。
「わたし、また来てもいいかな」
斯人は目をしばたたかせると、小さく上品に嘆息した。
「来るなと言っても来るのでしょう」
「うん!」
詩音は思い切り破顔した。
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