1|詩音

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*** 「日比谷くーんっ!」  一旦帰って昼食後。再びやってきた詩音に、斯人はしかめっ面を向けた。 「どうしてそんな顔してるの?」 「当たり前でしょう。濡れた体で入ってこないでください、本はあなたと違ってデリケートなんです」  道中、突然の天気雨に降られたのだ。長い髪も白いブラウスもぬれそぼり、肌にぴったりとくっついてしまっている。 「失礼しちゃう! こう見えても、わたしだって繊細なんだから!」 「本は湿気に晒されるとカビが生えるんですよ。悔しかったらあなたもカビてごらんなさい」 「カビてまで張り合いたくない!」  白い頬を紅潮させて怒る詩音の相手はそれ以上せず、斯人は二階に向かって叫んだ。 「ハク! タオルを持ってきてください! 例の来客が濡れネズミです!」 「言い方!」  間もなくして、タオルを足でつかんだハクが飛翔してきた。心遣いには素直に感謝することにする。 「ありがとう、ハク。日比谷くんも」 「まったく……。そうだ、お館、大丈夫ですか。館内の湿度はどうです?」  斯人は部屋の壁に向かって話しかけた。書寂館への問いかけのようだが、相手はどのように答えるのか、と詩音が不思議に思っていると、 「わ……!」  目の前の現象に、声を漏らす。壁に、まるで浮き上がるように文字が現れた。明朝体で書かれたそれは、『問題ない。湿度は六割二分だ』と読めた。 「これが、書寂館の言葉!?」 「はい。お館は声を持ちません。その代わり、館内ならどこでも文字を記すことができるのです。壁でなくても、例えば手帳のページなどでも」  伝えることを伝えたからか、壁の文字はすっと消えた。 「ちなみに、プライベートな私室以外は、館内どこにいてもお館には僕たちの声が聞こえていますし、姿も見えています。下手なことはしませんように」 「しないよ!」  業務以外では不遜な態度の斯人をひとにらみすると、詩音は気を取り直してポケットからスマホを取り出した。元はといえば、これを見せに来たのだ。 「日比谷くん、あのね。ここに来るまでにすごいものを見つけたから、写真撮ってきたの」 「写真?」  詩音がスマホを操作すると、斯人は「これは……」と物珍しそうに画面を凝視した。 「虹! 山に入る前に見えたの。きれいに撮れてるでしょう?」  天気雨だからこその幻想的な七色の弧。山とは反対側、町の方角に、何にもさえぎられることなくかかっていたので、大喜びでシャッターを切ったのだ。 「これも、館内にいたら見られないからね。どうかな?」 「確かに、虹など久しく見ていませんね……」  気に入ったのか、彼は夜の水面のような目で、じっと写真に見入っている。詩音はそっと満たされた気分になった。今度は何を持ってこようかと考えていると、 「虹……まだ見えますかね」 「えっ?」  斯人は詩音にスマホを返すと、彼女を大階段へいざなった。初めて上がった二階には、やはり書架が立ち並んでいた。斯人はもう一つ上へ足を進める。ついて上った三階には、それ以上への階段がなく、ここが最上階であることがわかった。  三階は、これまでとは打って変わって本棚がほとんどなかった。それどころか、縦長のタンスや、テーブルを挟んで向かい合ったソファなど、生活感のある調度品が置いてある。 「ここは……」 「僕の生活空間です。書寂館は職場兼自宅ですので」 「だから三階だけ、階段とフロアとの間に扉があったんだね。プライベート空間だから」 「ええ、閉館中は今のように開け放っていますがね」  階段をぐるりと回って反対側へ行くと、ガラス戸が見えた。開けて入ると、そこは弧を描く柵に囲まれた半円のバルコニー。三歩進めばへりに着いてしまうほどのこぢんまりとしたもので、花もインテリアも何も置かれていない。だが、殺風景かといえば、決してそうではなかった。生い茂る緑ごしに、これだけ町並みが一望できるパノラマがあれば、鉢植えや飾り棚など不要だろう。雨は上がったようで、二人はそのまま外へ出た。 「わぁ……すごい。あ、あれ、わたしの家!」 「あの豪邸、あなたの家だったのですか……」  詩音は手でひさしを作って視線を巡らせたが、天気雨の奇跡は消えてしまったようだった。今はただ、トルコ石のような鮮やかな空に綿雲が浮かぶだけだ。 「……見えませんでしたね」 「そうだね……」  斯人は踵を返して、ガラス戸のほうへ戻った。戸に手をかけると、詩音に背を向けたまま、彼は静かに言葉を紡いだ。 「ここは、僕が唯一、外の世界に触れられる場所なんです」 「そう、みたいだね。でも、たった一か所でも、あってよかったじゃない。……よく来るの?」 「いえ、最後に来たのはいつだったか」  詩音は目を丸くした。斯人は外界を望んでいるはずだ。あえて室内に閉じこもるのは、なぜか。  だが、そのことを問う言葉は、斯人の失望したようなため息で、霧のように消えた。
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