1|詩音

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*** 「日比谷くんーっ、たのもーっ!」  夕方になってしまったが、せめて開館して忙しくなる前にもう一度、とやってきた詩音は、食傷気味な面持ちの斯人に口を開きかけて、 「どうしてそんな顔をしているのかと尋ねるのでしょうが、そんなものは火を見るより明らかです。図書館では静かにしろと習わなかったのですか。その程度もわからないなら小学校の低学年図書室から出直してきてください」 「……日比谷くんって、ほんと、丁寧なのは口調だけだよね」 「ブックスタートから出直しますか?」 「乳児扱い!? ごめんなさいってば、わたしが悪かったもん!」  斯人はやれやれと肩をすくめると、「今度は何を持ってきたんですか」と尋ねた。詩音の両手は、またもお椀の形で閉じていた。  詩音は、はにかむように笑った。 「当ててみて」 「わかりました。虫愛づる姫君のことです、どうせ毛虫とかでしょう。『趣深い様子をしているのは奥ゆかしい』とか何とか言って、日夜、手に乗せて見つめているのに違いありません」 「違うもん! というか、古文で習ったときに思ったけど、毛虫触ったらかぶれちゃうよね!?」  形のいい眉を吊り上げて反論する詩音に、斯人は「じゃあ何ですか」と胡乱な目を向ける。詩音は彼に歩み寄ると、その手をゆっくりと開いた。 「言っておくけど、摘んだんじゃないから。落ちてたんだからね」  詩音の手のひらには、小さな色白の桜の花がいくつも乗っていた。先ほどの天気雨のせいか、たくさん地面に転がっていたもののうち、きれいなものを選りすぐってきたのだ。  森深い館の窓からは、木々こそ飽きるほど見られど、花はほとんど見受けられない。なので、これも斯人にとっては、手の届かない外の世界の一部なのだ。 「どう? わたしは虫じゃなくて、花愛づる姫……君……」  詩音の声は、しりすぼみになって消えた。  斯人が、今まで見たことがないほどに目を見開いていた。花桜を凝視するその瞳は、彼の心そのもののように揺れている。虹の写真を見た時に彼の周りに浮かんでいた輝きは、今はひとかけらも姿を現さなかった。代わりに、濡れるような悲哀が、彼を包んでいた。  詩音は、そこで初めて、自らの行いの意味を知った。  外の世界を連れてきて、斯人を満足させているつもりだった。全くの逆だったのだ。彼は、憧れに仮初めの形で触れることで、いっそう苦しく思いを募らせることになってしまった。詩音がいなければ、彼女が余計なことをしなければ、籠の外などに恋い焦がれることはなかったのに。ただ無口な主と、知ることを欲する彼岸の人々のためだけに生きることに、何の疑問も抱かずに済んだのに。  ――果たして、それでいいのか。 「……日比谷くん」  詩音の中の羅針が、大きく向きを変えた。 「外に、出よう」  斯人の肩が震えた。視線は上げない。 「出たいんでしょう、本当は。仕方ないって言葉で、あふれてくるものをずっと押し込んでいたんでしょう」 「……ちが」 「緑花公園の、季節の花コーナーが好きだったんでしょう。雛川のせせらぎが心地よかったんでしょう。外の世界は素晴らしいって、日比谷くんが言ったんじゃない」 「僕は、別に外に出たいなど……」 「嘘」  絞りだされた虚勢を、詩音は一言で切り捨てた。 「窓の外を見て、つらそうな顔してた。虹が見られなくて、残念そうにしてた。あれも全部演技だったなら、今の日比谷くんを信じてあげる」 「……」  斯人は押し黙った。もう、強がりさえも口にしなかった。 「ね、日比谷くん」  斯人は顔を上げた。作り物のような端正な顔が、初めて人間らしい表情に染まっていた。 「書寂館にお願いして、外に出ようよ。わたしが連れてってあげるから」 「……お館は、きっとお許しになりません」 「でも、日比谷くんは出たいんでしょう。六年も我慢したんだもの。書寂館は一緒に説得しよう、ね?」  詩音は桜の花を全て左手に移すと、右手を差し出した。夜の水面が揺れる。一瞬一瞬が、ゆっくりと流れていく。  斯人が小さく息を吸った。右手を少しずつ、少しずつ上げる。止める。伸ばしかけて、引っ込める。じっと待ち続ける詩音の目を見て、微笑む彼女の右手に斯人のそれが重なろうとして、 「……――!?」  二人の顔が凍り付いた。肌が粟立った。本能の底から恐怖を感じさせるそれは、すさまじい殺気。  詩音は、慌てて辺りを見回した。何の変哲もない、図書館内だ。しかし、周りの空気が振動するほど、空間が赤く変色して見えるほど、館内は激情で満ち溢れていた。差し出していた手は震え、冷や汗が玉を結ぶ。何が起こったのか、と仕書に問いかけようとして、彼のただならぬ様子に気づいた。 「日比谷くん……?」  斯人は瞠目したまま、胸に手を当てて、肩で息をしていた。状況をつかみきれない詩音が呆然としている間にも、だんだん呼吸は浅くなり、詩音以上の汗が頬を伝う。胸元をぎゅっとつかんで固く目をつぶると、彼はその場にくずおれた。 「日比谷くん!」  詩音は悲鳴をあげて、斯人に駆け寄った。手にしていた桜の花が舞って、床に零れ落ちる。 「どうしたの、大丈夫!? 聞こえる!?」  倒れた斯人のもとに膝をつき、声をかけるも、彼は片目を薄く開けるだけで精いっぱいのようだった。もう一度呼びかけようとして、詩音は憤怒の気配に顔を上げる。  向かいの壁一面に、字が浮かんでいた。昼間見た、整った明朝体などではない。手で書きなぐったような、あるいはひっかいて傷つけたような赤黒い字が表していたのは、ただ一つ。  『許さない許さない許さない許さない許さない』と、それだけを連ねていた。 「まさか……書寂館が……」  真っ赤な殺気の中で、詩音が声を震わせる。やがて、壁の文字は新たな言葉を紡いだ。 『汝はこの私の仕書。外に出ること能わず。死より重い苦しみをもって、契約の重さを知れ』 「……お館……っ」  斯人はかすれる声で呼ぶと、弱弱しく咳込んだ。  詩音の手を取ろうとしただけで、外に出たいと望むだけで、瀕死の状態まで痛めつける。これが書寂館。これが斯人の主人。 「や……やめて、やめて! 日比谷くんは悪くないでしょう! こんなのひどいよ!」 『なんぴとの唆しであろうと、此奴の意思に相違無し。私を裏切る契約違反である』  次々と浮かんでは消える書寂館の暴慢に、詩音は歯噛みした。斯人のためと持ち込んだものは彼の心を乱し、やはり斯人のためと差し伸べた手は、今も彼を苦しめている。何もかもが裏目に出た。 「ごめんなさい……わたしが余計なことをしたの、彼は悪くないの! お願いだから許して! もう解放してあげて! たった一人の大事な仕書でしょう!」  詩音は力の限り叫んだ。書寂館は一言、壁に記すのみだ。 『誓え』  主の命令を、斯人はかすむ目で捉えた。 『誓え、二度と望まぬと。汝は私の元で、代替わりのその時まで、使命を全うし続けられたし』  結局、説得の余地などなかったのだ。今でさえ、詩音の訴えは露ほども響かなかった。書寂館の仕書への言葉は一方的な命令。もし書寂館が進言で納得する主であれば、斯人はとうの昔に自由を選んでいただろう。 『誓え、我が仕書よ』 「……っ」 『誓え』 「……僕、は……」  腹ばいのまま、ゆっくりと視線を上げた彼は――ふと、床に散らばったものに目をとめた。薄紅の美しい花が、彼の瞳を縫いとめたように離さない。斯人は数回喘ぐと、再び伏して小さく呼んだ。 「……し、おん」 「え……」 「詩音……」  斯人はくぐもった声で、ゆっくりと言葉をつないだ。 「桜は、どんな風に、咲いていたんですか」 「こ、こんな時に何を……」 「教えて、ください。木に残っていた、桜は、どこで、どんな風に生きていたんですか」  必死にそう伝えた斯人の背中をさすりつつ、詩音は情景を思い出しながら答えた。 「街路樹の桜なの。道路沿いに咲いていて、日の光を透かしてきれいだった。たくさん、たくさん咲いてたよ」  斯人が、浅く嘆息する気配があった。呆れを含んだ声で、途切れ途切れに言葉を絞り出す。 「全然……わかりませんよ、情景描写が、下手すぎです。言葉だけじゃ、何も伝わってこない。どんな香りがするんです、どれくらいまぶしいんです。どんな風が吹く中で、どんな音が聞こえる中で、あなたはそれを見たんですか」  斯人は息を継いだ。諦めきれない未練が、吐いた息から聞こえた。 「ああ、詩音。この桜はいったい、どんな風に生きていたのでしょう。きっと美しい。きっと素晴らしい。世界は、そんな素晴らしいものであふれている。僕はそれを、いつまでページで知るのですか。いつまでも、ページで知るのですか……」  そこまで言って、斯人は息をつめた。震えるほどに体を固くして、さらなる苦痛に耐える。書寂館の殺気は、質量さえもちそうなほどの濃度になっていた。彼の言葉が、反逆の意思として断罪対象となったためだ。  そう――彼は、反逆したのだ。誰かの手を取って示すのではない、自分の言葉で伝える意志。 「日比谷くん……」  詩音は降り続く殺気に慄きながら、必死で考えた。 (どうすれば……)  ようやく、斯人は自分の気持ちに向き合い、決意したのだ。摘み取られてなるものではない。 (どうすれば、書寂館から解放してあげられるの)  詩音の言葉には聞く耳を持たない。斯人の意見も聞き入れない。そんな非情な図書館に、一矢報いる手は。  考えている間にも、斯人の体力は限界へと近づいていく。このままでは、命さえも危ない。  斯人が、書寂館に殺される――。
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