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2|斯人
斯人が書寂館の呪縛から解放された、次の日。
「ああ、詩音。あなたがこれほどまで無能だとは思いませんでした。少しでも見込んだ僕は、目も耳も何もかも、カリウムチャネルに至るまで節穴だったようです」
「言い方!」
斯人に罵倒される羽目になったことの発端は、数分前にさかのぼる。
朝起きてすぐに身支度をすると、詩音は書寂館を訪ねた。昨日は結局、もうすぐ開館するからと家に帰されたのだが、体質が変わってしまった斯人が気がかりで仕方なかったのだ。
館に飛び込むと、いつも通り愛想のない斯人が迎えた。元気そうな様子にほっとしていると、
「おはようございます、詩音。昨日はどうも、お手数をおかけしました」
「ううん、気にしないで。わたしこそ……その、勝手に加護をなくしてしまって、ごめんね」
「構いません。その責任をとるために、今日もここへ来たのでしょう。あなたのせいで自由になれたんですから」
「え? いや、わたしはただ斯人くんの体が心配で……っていうか、日本語変じゃない?」
「口答えする暇があったら、頷くか首肯するか点頭するかしなさい」
「是が非でも頷かせようとしてる!?」
とはいうものの、責任をとって差し入れをしたり、仕事を手伝ったりすると約束したのは詩音だ。それをただの場の勢いだったと反故にするつもりはない。それに、図書館の仕事に携われるなど、司書志望の詩音にとっては降って湧いたような僥倖だ。ここで修業を積めば、夢に一歩近づけるかもしれない。
「……よし、わかった。わたしは何をすればいいの?」
「そうですね、今から資料装備をしようかと思っていたので、それを覚えてもらいましょうか」
図書館の本は、発行されたそのままの姿で配架されるわけではない。帯を取り、バーコードや請求記号ラベルを貼って透明なブックカバー――通称ブッカー――をかけ、天地印を押してようやく書架に並ぶ。その一連の作業を、ここ書寂館でもするというのだ。
「おおっ、図書館っぽい仕事!」
「図書館ですよ、ここは。何を今さら」
斯人は呆れながらカウンターにつくと、山になった本に手を伸ばした。詩音は首をかしげる。その本は、すでに装備されていた。
「図書館の加護については重々ご存じだとは思いますが」
詩音が問いかける前に、仕書は口を開いた。
「それとは別に、仕書には術を使う霊力が宿ります。その一つがこの装転。通常の図書館と違って資金が潤沢でないため、愚直に書籍を購入することはできません。そこで、通常の図書館から借りてきた蔵書の魂をコピーして、この依り代に移すのです」
「ここの蔵書、全部そんな風に……!?」
「ええ。違法コピーに類する行為のようにも思えますが、だからといって現世の人間に資金を求めることはできませんから。ちなみに、出来上がったコピーの本は霊体ではなく、普通の本と同じです。彼岸の人々は、物体をすり抜けるイメージがあるかもしれませんが、任意で物に触れるので」
斯人が本に手をかざすと、まるで脱皮するように、本が幽体離脱を始めた。燐光を放つ幽体が、用意された短冊形の紙片に移されると、紙片は幽体になじむように形を変え、やがてもう一冊の本へと生まれ変わる。
「……と、この作業を頼みたいのですが」
「ちょちょちょ、無理でしょ! わたし人間だよ!?」
「僕も人間ですよ」
まるで化け物扱いされたような気分で、斯人が苦い顔をした。
「先程、仕書には霊力が宿るといいましたが、仕書にしか宿らないとは言っていません。普通の人の中にも、いわゆる霊感があったり、奇跡を起こしたりと、霊力の素質がある者はいるんですよ」
「えっ……でも、わたし、霊なんて全然見えないよ? 奇跡なんかも起こしたことないし」
「しかし、霊力の素質があるのは確かです。その証拠に、あなたはここへやってきた」
詩音が首をかしげていると、斯人は指を立てて説いた。
「考えてもみてください、あの世とつながっている場所など知れ渡ったら、人は何をしでかすかわかりません。ゆえに、書寂館は非公式で秘匿された存在。だから緘口令を敷いたのですが、それはさておき。周りは人払いの結界に囲まれていて、通常は無意識にこの場所を避け、外から見ても、まるで盲点に入ったかのように認識しなくなります。だからこうして人が訪ねてくることなんて、まずないんです。まれにあるとすれば、その人はすべからく、結界を破る程度の霊力をもっている。あなたもしかりです」
「そうなのかな……じゃあ、わたしが気づいていないだけ?」
「霊力にもいろいろな形がありますから、感受性には表れないだけかもしれません。とにかく、霊力がある限り、誰でも練習すれば、この術は使えるようになります。まず、本に手をかざしてみてください。そして、その本質に集中してください」
「こ……こう?」
斯人の真似をして、本に手をかざし、物の本質とやらを意識してみる。が、何の変化も訪れない。
「で、できないけど……」
「教示が難しかったのでしょうか。こう、中を透かし見て、それを持ち上げるように」
「うーん……」
「いうことを聞かない犬のリードを引くように」
「うーん……?」
その後も、斯人は数多の直喩隠喩提喩換喩を用いて詩音を指導するが、彼女はうなるばかりで一つも成功しない。
やがて、
「ああ、詩音。あなたがこれほどまで無能だとは思いませんでした」
そう見限られるに至った。
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