1|詩音

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1|詩音

 名は体を表すというが、実は無意識のうちに体が名ににじり寄っていくのであって、ならば詩を含め文学を、ひいては本というものを軒並み愛する性に育ったのもこの名を授かった瞬間からの使命であり、将来の道をその世界に繋げるのも必定というものではないか。  などというのは回りくどい言い訳ではあるが、この際どんな詭弁を使ってでも譲るつもりはない。十六年と六か月の生涯の中で反抗期らしいものがなかった彼女が一世一代のクーデターを起こすきっかけとなったのは、一枚の紙きれだった。侃々諤々の親子喧嘩の末、進路希望調査票を投げ捨てて、邸宅の裏に鎮座する山林へと飛び込んだ詩音は、奥へ奥へと疾走しながら不満の限りをまき散らす。 「お父様のばかぁーっ! わからずや! 職業選択の自由を侵す極悪人ーっ!」  枝を踏み、息を弾ませ、木漏れ日の中をひた走る。がむしゃらに森を突き進んでいた詩音(しおん)は、痛む肺と鉛のようになった腿の悲鳴をようやく聞き入れて、ゆっくりと足を止めた。栗色の長い髪は乱れ、咄嗟に履いてきたローファーは土まみれ。ここまで風貌を乱しながらも、醜態と呼ぶに至らないのは、さすが良家の息女の貫禄か。  うつむき、落ちかけたピンクの髪留めを直しながら、詩音はひとしずくの言葉をこぼす。 「家なんて継ぎたくない……わたしは司書になりたいのに……」  本に惹かれ、図書館に魅了され、司書に憧れた。その思いは、一人娘を財閥の後継者にしたい父との軋轢を生んだ。怒りこそしないが頑として譲らない父に、さしもの詩音も反抗し、家出めいたことをしてやろうと森に逃げ込んで今に至る。過保護な父のことである、今ごろ右往左往しながら、スマートフォンのGPS機能で愛娘を探していることだろう。だが、生憎、詩音は先んじて位置情報機能をオフにしているため、なしのつぶてだ。 「そういえば……この森、入ったことはあっても、こんなに奥まで来たことはなかったなぁ……」  常緑樹が空を覆うように葉を広げ、風に吹かれて時折さざめく。土のにおいはあまり気にならず、澄んだ空気が辺り一帯を満たしていた。ふと振り向けば、遠目に白い鳥が見える。フクロウのような珍しいシルエットに目を見開き、改めてここが未知の場所であることを認識した。  暗くなる前に帰ればいいや、と歩みを進め、緩い勾配をのぼった先の開けた空間に――それは、あった。  まるで十九世紀に迷い込んだのではと錯覚するような、ネオ・バロック様式の巨大な建物。四本柱の奥に扉を秘めた棟の左右には両翼が控えており、来る者の度胸を試すような、威圧的な迫力がある。象牙色の壁も柱も、とても新しそうには見えないが、かといって醜く古ぼけている様子でもない。例えるなら、年をとってもなお背筋の伸びた華道家。あるいは生まれた時から老成した超越者。そんな、経年という概念から外れたような雰囲気を醸し出していた。  詩音はしばし呆けた。こんな森深い場所にある、それもヨーロッパの聖堂のような外観をした建築物。一体何の施設なのか、そもそも人はここを知っているのか。森の中に建物があるなどという話、一度として耳にしたことがない。様々な疑問が渦巻くも、好奇心はそれら全てをねじ伏せて、詩音を突き動かした。中央の扉へ歩み寄り、高まる鼓動を抑えることすらせず、ドアの取っ手に手をかける。不安、恐れ、躊躇、そんなものを彼女はよせつけない。生来、行動的で怖いもの知らずな性格だ。ここへきて怖気づく由もなく、ゆっくりと重厚なドアを開き、屋内へと足を踏み入れた。  中は明かりがついていた。埃っぽくもなく、今も使われているような雰囲気だ。詩音は内部を見まわして、幾つも平行に並べられた物から建物の正体を推し量り、目を輝かせた。 「図書館だ……!」  濃い色合いをした木製の棚に詰められているのは本、本、本。ハードカバーが重々しく腰を下ろしている書架もあれば、あちらではスマートな新書が立ち並び、こちらでは文庫本が身を寄せ合っている。近づいてみてみると、どの本も、建築様式の古風さのわりにまだ新しそうだ。 「すごい……こんなところに、こんな素敵な図書館があったなんて!」  閲覧用と思しき机にも、ソファにも、利用者は一人もいない。立地が立地ゆえに、無名なのだろうか。知る人ぞ知る穴場なのかもしれない。職員の姿さえなく、ここからは見えないカウンターにでもいるのだろう、と詩音は推測した。カウンターが入口付近にない図書館も珍しい。  人っ子一人いない館内は、世界が音を忘れてしまったかのような静謐に包まれている。カーペットを踏むささやかな足音さえ楽しみながら、詩音は右手の書架へと向かおうとして――。 「――どちら様ですか?」  月夜のような声を聞いて、振り返った。声の主は、中央の巨大な階段の踊り場に、いつの間にかたたずんでいた。  モスグリーンをもっと暗くした、深い色のスーツのような服装をした人物だった。年若い青年――否、詩音と同じ年頃の少年だ。真っすぐな黒髪はおとがいの辺りまであり、前髪もやや長めだ。白い肌と線の細さが中性的な、人形めいた端正な顔立ち。しかし目つきは無感動に冷えていて、愛想という言葉からは地球半周ほど遠い。同年代のはずなのに、クラスメイトの男子たちが百年かかっても手に入れられないような、理知的で落ち着き払った風格をまとっていた。 「えっと……」  人間であるかどうかすら疑わしいほど洗練された雰囲気に、詩音は戸惑った。その間にも、彼は半紙のような静寂に黒い足音を落としながら、大階段を下りてくる。近づいてくるにつれて、スーツに見えたその衣服が風変わりなものであることに気づいた。テーラードジャケットの襟は、セーラーカラーのように後ろに流れ、しかもその裾は切れ込みにより分かれている。燕尾服のテールのようだ。白いシャツの胸元に結んでいるのは臙脂のリボンタイだが、結び目からは短冊のような紙が垂れ下がっている。見ようによっては栞のようでもあるそれには、左右対称の見たことのないマークが施されていた。手にはめているのはフォーマルな純白の手袋。一式、何かの制服だろうか。  装いに気を取られていた詩音は、階段を下りきった少年へのいらえを失念していたことに気づき、慌てて口を開いた。 「わ……わたしは白柳寺(はくりゅうじ)詩音。この山の表に住んでいます」 「どうやってここへ来たんです?」 「えっ?」  交通手段を聞かれているのだろうか。だとしたら徒歩だ。  詩音がそう答えると、少年は「そうですか」とまぶたを閉じて、 「では、もうお帰りください。そしてこの図書館のことは、どうかご内密に」 「……は!?」  淡々と言い放った少年に、詩音は詰め寄った。 「ちょ、ちょっと待って、どうしていきなりそんなことを!?」 「ここはあなた方に開かれた図書館ではありません。お引き取りを」  口調は丁寧だが、強制退館させようとしていることに違いはない。彼が何者かも分からないままだが、万人に開かれし知の殿堂から利用者を無下に追い出そうなど、褒められた行為ではない。取り付く島もない様子の少年をぎゅっとにらむと、詩音は記憶の海から武器を引き抜き、それを突き付けながら堂々と言い返した。 「あなた、知らないの? 国民はみんな、平等に図書館を利用する権利をもっているの。年齢とか、性別とか、そういうので差別されちゃいけないんだよ?」  ――伊達に父と口論してまで司書を志望しているわけではない。詩音は、高校の勉学の傍ら大学レベルの図書館情報学を独学し、ある程度の理論武装をしているのだ。  少年は軽く目を細めた。それを不信と受け取り、詩音はなおもまくしたてる。 「嘘だと思う? じゃあ調べてみて。ユネスコ公共図書館宣言っていうのがあって……」 「――『公共図書館は、その利用者があらゆる種類の知識と情報をたやすく入手できるようにする、地域の情報センターである』」  詩音は瞠目した。ため息交じりに、少年は続ける。 「『公共図書館のサービスは、年齢、人種、性別、宗教、国籍、言語、あるいは社会的身分を問わず、すべての人が平等に利用できるという原則に基づいて提供される』……このことですかね」  よどみなく唱える口調には、一片の迷いも見られなかった。答え合わせの必要なく直感的に分かる。彼は、一字一句違えることなく宣言をなぞった。  唖然とする詩音に、少年は変わらぬ態度で応じた。 「確かにユネスコ公共図書館宣言にはそうあります。ですが、それがここにも当てはまるかといえば、答えは否です。まず、この図書館は公共図書館ではない。そして、国立国会図書館が基本的に十八歳以上しか入れないように、大学図書館が大学生にアドバンテージのあるサービスを行っているように、この図書館にも対象があるのです」  高みから降ってくるような少年の言葉に、詩音は何も言い返せなかった。自慢の知識は、一矢も報いることができなかった。たった一つの切り札を難なくいなされ、劣勢に立たされた詩音は、 「もう一度申し上げます。――お引き取りください」  有無を言わさぬ語勢に屈し、再び重い扉に手をかけた。
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