夢の欠片(かけら)

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夢の欠片(かけら)

 昼間の風は温度だけは落ちて、湿度だけは残したまま、開け放っている廊下の窓から重りでもつけたようにもたれかかるようにそよそよと吹いている。  放課後もだいぶ過ぎた教室へ、ブラウンの長い髪を持つ少女は小走りに戻ってきた。 「あぁ、遅くなっちゃった。図書室で本読んでたら……」  ガラガラとドアを開けて、自分の机へと足早に近づいて、バッグをフックからはずそうとするが、焦っていて指先がもつれる。 「知礼(しるれ)、待ってるよね? 急いで急いで!」  何度かむちゃくちゃに動かしているうちにはずれ、百八十度振り返って、ドアから廊下へ出ていこうとした。 「よし、帰ろ――あれ?」  人目を引くマゼンダ色の長い髪が教室の端に居残っていた。上履きはピタリと止まり、 「漆橋くん、まだ寝てる……」  まるで彼の存在がないように、明かりは全て消されていて、西にだいぶ傾いた微かな陽光に映し出される、彼の女性的な髪が手招きしているようだった。 「今までこんなことなかったのに……。あっという間に帰ってたよね?」  違和感を抱いた。いつもと違うことが起きている。それは何か対策を取らないといけないサイン。だが、どこかずれているクルミ色の瞳を持つ少女は簡単に片付けた。 「今日は疲れてるのかな?」  教室と廊下の境界線で、少女の上履きは行ったり来たり。長く続く廊下と限られた教室というふたつの空間。だが、共通点があった。 「ん~~? 廊下にも人はほとんどいない」  下校時刻をとうに過ぎていて、人影はまったく見えない。 「教室にももちろんいない」  眠り王子が一人。みんなに忘れ去られたように、机の上に突っ伏している。 「このままにしておいたら、明日の朝までここで寝てるかもしれないよね?」  少女の上履きは戸惑い気味に、机の間に一歩踏み出した、 「それは風邪引くね。起こした方がいいね」  だが、次の歩みが、机の脇に下げられていた、巾着袋の紐に引っかかり、 「っ!」  慌てて両手を机について、何とかまぬがれた転倒。ガタガタンと派手な音を響かせた。打ち付けたスネをさすりながら、そうっとマゼンダ色の髪をうかがう。 「今ので起きたかな?」  見つめること数秒。眠り王子は微動だにしなかった、白いワイシャツから出ている腕も、薄茶色のズボンの長い足も、上履きも止まったままだった。  かなり大きな音だと思ったが、熟睡しているようで、少女は斜め後ろであちこちからのぞき込む。 「ん? まだ寝てる……」  今度は引っ掛けないように、慎重に近づいてゆく。そうして、光沢があり、可愛らしいピンクの髪の近くへやって来た。こんなそばでこの青年を見るのは今日が始めてだ。  男子なのに、ほのかな石鹸の香りがする。不思議な魅力に惑わされそうになりながらも、声をかけてみた。 「漆橋くん?」 「……ZZZ」  返ってくるのは、心地よい寝息ばかり。やりかけたことだ。ここであきらめて帰るのは心残りだ。少女は黒板に顔を向けて、ない頭を悩ませる。 「呼びかけただけじゃ起きない。どうしよう?」  一線を越える。いや、境界線を越える。そうでないと意味がおかしくなる。などと、少女は心の中で自問自答しながら、一言断った。 「ちょっと失礼して……」  マゼンダ色の髪に手をかけると、絹のような滑らかさで心地よさがめまいのように襲いかかる。だが、少女は煩悩を捨てて、肩を大きく揺する。 「漆橋くん? 漆橋くん?」 「ん~……」  寝起きの低い声が喉にジリジリと引っかかるのが、喘いでいるようで、そこに混ざる吐息は女性そのもので、ファンタジー世界の両性具有(りょうせいぐゆう)でも目の前にしているような気分に、少女はなった。大きく口を開けて、衝撃的で表情が大きく歪む。 (あぁっ! 遠くから見てただけだったけど、本当に綺麗だった。女の人みたいだ。お月様みたいな透き通った肌。このまま連れ去りたい……)  女子高生、男子高生を誘拐、監禁。性奴隷として……。どこまでも墜ちてゆく少女の煩悩という妄想は。だが、きちんと自分で戻ってきた。 (というのは冗談で……)  未だに手をかけている肩をもう一度揺すると、 「起きて~! 朝になっちゃうから」  結んでいないマゼンダ色の髪をかき上げながら、森羅万象(しんらばんしょう)のような神秘的なヴァイオレットの瞳がまぶたから解放され、ゆるゆる~と語尾の伸びた声が響いた。 「どなたですか~?」  話したことなどない。相手は有名な眠り王子でも、自分のことは知らないだろう。少女はそう思って心を改めた。 「花水木(はなみずき) 倫礼(りんれい)。同じクラスの――」  だが、月は途中でさえぎり、こんな言葉をスラスラと並べた。 「知っています~。一年の一学期は左から三番目の列で前から二番目の席。二学期は一番右側の列の前から四番目の席。三学期は一番廊下側の最後尾(さいこうび)の席。そうして、二年の今学期は窓から二列目の最後尾に座っている、僕のクラスメイトです~」  眠り王子と呼ばれている男子高校生の身に何が起きているのかわからなくて、倫礼はぽかんとした顔をした。 「え……?」  今の言葉の羅列をもう一度思い返してみる。 「席の場所?」 「うふふふっ」  ニコニコとした笑顔と含み笑いの前で、倫礼はびっくりして大声を上げた。 「えぇっ!? どうしてそんなに全部覚えてるの?」  本人でさえ、言われなければ抹消寸前だった記憶。それなのに、話したこともないのに、答えてきた。倫礼にとっては驚嘆に十分値する。  だが、月にとっては、彼女の言っていることの方が不思議だった。 「おや~? なぜ、忘れるんですか~?」 「なぜって……?」  眠り王子の奇怪行動の真相に迫れそうだったが、倫礼はまぶたをパチパチしただけだった。起こしておいて、何も言わない女子。ニコニコの笑みで月は問いかけるが、 「何かご用ですか〜?」 「あぁ、もう放課後だよ。このままだと夜になっちゃうから……」  倫礼は窓の方へ振り返って、少し色あせた夏の空を指差した。すると、地獄の底からの招待状のような末恐ろしい含み笑いが聞こえてきた。 「うふふふっ。君は僕の眠りを妨げたみたいです〜」  語尾はゆるりと伸びているが、ヴァイオレットの瞳は邪悪一色だった。倫礼は背筋に寒気が走り、震え上がり、 「あぁ、余計なことをして……」  月からはこんな言葉が出てくるのだった。 「今回は見逃して差し上げますから、僕の願いを聞いてくださいませんか?」  さっきと打って変わって、ニコニコの笑み。女子よりも綺麗で、石鹸の香りがする男子。ふたりきりの教室で、倫礼は月の顔をじっと見つめる。 「どんなこと?」 「僕の話を聞いてくださいませんか?」 「話?」  倫礼が聞き返すと、ニコニコの笑みはすっとどこかへ消え去り、ヴァイオレットの瞳はまぶたから現れた。それはどこか寂しげな色をしていた。 「誰にも話していない僕の話です」 「漆橋くんの話……」  綺麗な瞳で、夕暮れ時の空よりも澄んでいて、吸い込まれていきそうで、倫礼はカバンを持つ手の力が抜けそうになるのだった。  凛とした澄んだ儚げで丸みのある女性的なのに男子の声が、シャンと鈴が鳴るように要求を突きつける。 「月と呼んでください〜」 「え、でも……」  一年生の時から同じクラスだ。姿は気になって見てきた。しかし、話したのは今日が初めてだ。倫礼は戸惑ったが、もうすでに月の手中に落ちていたのだった。 「おや〜? 僕の願いを聞くでしたよ〜」  確かにそう言っていた。倫礼は交換条件の罠を仕掛けられていたとは気づかず、 「あぁ、月くんの話を聞く……わかった」  月はニコニコの笑みをしていたが、わざとらしく言葉を紡いだ。 「君はおかしな返事をする人ですね〜」 「え……?」  倫礼は思った。この目の前にいる男子高校生がもし、自分の夫だったとしたら、妻として今の言葉は理解しかねると。 「うふふふっ」  月は含み笑いをもらす。この目の前にいる女子高校生がもし、自分の妻だったとしたら、夫として見逃せない言葉だと。  そこで、ガラガラっと教室のドアが勢いよく開き、男性教諭が顔をのぞかせた。 「ほら! 用がないなら早く帰れ!」 「あぁ、はい!」  倫礼が慌てて返事をすると、緊縛は解け、ふたりで教室から廊下へと急いで出た。     *  校庭を校門まで一緒に歩いてゆく。他の生徒たちがこっちを見ては、こそこそと何か話していたが、倫礼にとってはそんなどころではなかった。  話を聞くと約束はしたが、月からまったく話してこないのである。倫礼はバッグを落ち着きなく触ったり、暮れてゆく空を見上げていたりしていたが、かなり戸惑い気味に本題にいきなり入った。 「あ、あの……ずっと眠ってるのって、病院に行ったの?」 「えぇ、行っていますよ」  話しづらいから言わなかったのかと思ったが、そうでもなく、月は気品高くうなずいた。 「何て診断されたの?」 「原因不明の過眠症だそうですよ」 「薬は飲んでる?」  真昼の(つき)のように透き通りそうな美しい横顔。マゼンダ色の長い髪が夕風で後ろへとなびいてゆく。(るなす)は「えぇ」とうなずきはするが、どうも話がおかしいのだった。 「飲んでいるみたいです〜。ですが、僕には飲んだ覚えはないんです〜」 「覚えがない?」  ニコニコとした笑みで背の高い女性的な男子高校生。どこか別世界からやって来た天使か何かを見ているようで、学校の校庭にいるのがひどく非現実的だった。  だが、月はいたって真面目で、人差し指をこめかみに突き立てて、困った顔をした。 「数は減っているんです〜。ですが、記憶にないんです」 「どういうことだろう?」  記憶喪失。はたまた幽霊か。近づいてくる校門に倫礼は視線を移した。彼らの背後には生徒が人だかりを作っている。眠り王子が起きていることもそうだが、女子と一緒に歩いていることが大事件で。  学校敷地内から路上へと出て、ふたりの靴は並んで進んでゆく。車の往来の騒音を聞きながら、倫礼の質問は続く。 「いつからこうなったの?」 「三年前の四月三日からです」  日付までよく覚えている、月だった。しかし、ブラウンの髪の中にある脳裏には適当にしまわれる。 「中学生の春ごろ……」  住宅街にある小さなケーキ屋のショーウィンドウの前を、制服のふたりが通り過ぎてゆく。 「それまではなかったってこと?」  百九七センチの背丈の月は、遠くをずっと見つめたままだった。 「気がつくと眠っていたということが何度かありましたが、そちら以外はいたって平常でした」 「そうか……」  倫礼は唇に手を当てて、革靴の足を進め、色つきの石畳の線を目で追ってみるが、答えは見つからず、綺麗な男子学生の横顔に問いかけた。 「心理療法とかは試した?」 「えぇ。ですが、特に問題はないと言われました」  お手上げだった、ない頭の女子高校生には。倫礼は首をかしげたまま歩いて行こうとした。 「ん〜、どうして、こうなってるのかな?」  月はふと歩みを止め、いつもまぶたに隠れているヴァイオレットの瞳は姿を現して、孤島に一人取り残された人がSOSを必死に出すように言った。 「僕のうちで何かが起きているのかもしれません。ですから、君にお願いしたいんです」  つられて止まった倫礼は少しだけ振り返って、ふたりを残して、自転車や歩行者、車が素知らぬふりで通り過ぎてゆく。 「何かあるんだよね。だから、こうなってるんだよね……」  約束は約束だ。しかし、どこから手をつけていいかわからない。普通の生活を普通に送れない。大変だろう。どんな想いで毎日を過ごしているかは、本当に理解することはできないが。  だが、話しかけて、自分の話を聞いて欲しいと願われて、今一緒に帰路をともにしている。全てをきちんと解決できなくても、何かを探さなくてはと、五里霧中でも、倫礼は無理やり微笑んだ。 「色々調べてみて、力になれるようするから……」  月が彼女へすっとかがみ込むと、石鹸の香りが女子高生の鼻をくすぐる。 「君は僕の心配をしてくれているんですか?」  急に近くなったマゼンダ色の長い髪が風で揺れるのに見惚(みと)れ気味で、倫礼は首をかしげる。 「あぁ、そういうことになるね。あれ? どこでこうなっちゃったのかな?」 「うふふふっ」  まるで綺麗なお姉さんみたいな含み笑いをした月の言動がよくわからず、倫礼はまぶたをパチパチと瞬かせた。 「え……?」  眠り王子。  ではなく、  眠り王子姫。  が一番合っている。  妖精に魔法でもかけられたように、倫礼は夢見心地でその場でくるくるとワルツでも踊る妄想世界でゆらゆらと揺れ出した。  だが、凛として澄んではいたが低い響きがある、月の声が目を覚ますように問いかけた。 「君の家はこちらですか〜?」  我に返った倫礼は、駅へと続く道をはずれて、歩道橋の階段を一段登ろうとしていたところだった。慌てて、色とりどりの石畳に足を下ろす。 「おっと、危うく道を間違えるところだった」 「それでは……」  月が軽く会釈をすると、マゼンダ色の髪が夕日にきらめいた。腰までの長い髪を揺らしながら、それなりの肩幅のある背の高い背中が階段を登ってゆくのを、倫礼は見送る。 「あ、道の途中で眠るの危険だから、寝ないようにね!」 「えぇ」  振り返らず、今にもあくびをしそうなうなずきが返ってくる。 「じゃあ、また明日」 「えぇ」  階段を登りきり、歩道を進もうとする月は誰にも聞こえない小さな声で言った。 「気づかれなければよいんですが……」  帰り道が一緒になったのも今日が初めて。いつも眠っている男子生徒。倫礼は心配でしばらく階段の下に立ち止まっていた。  月の姿が見えなくなってから、全ての音も時間も正常に戻ったみたいに、倫礼の耳に目に音と景色が入り込んできた。だが、解決の兆しが見えたわけでもなく、彼女は歩道橋の下で立ち尽くす。  そこで、背後から急にキャピキャピボイスがかけられた。トントンという肩を叩かれる衝撃と一緒に。 「眠り王子に接近! ですね、先輩」  「うわっ!」  倫礼は大きく目を見開き、振り返ると、そこには一学年下の後輩、美波(みなみ) 知礼が意味ありげな笑顔をして立っていた。ほっと胸をなでおろしながら、 「知礼。どうしてここに?」  とぼけている黄色の瞳は疑いの眼差しを向けてくる。 「先輩こそ、一緒に帰る約束してて、忘れてたじゃないですか? 昇降口で話しかけようとしたら、眠り王子と一緒に歩いてるから、これは先輩にも春が来たんじゃないかと思って」  すっかり忘れていた。あの教室からこの歩道橋までを、美しき眠り王子の魅力という魔法にかけられて、倫礼はのこのことここまでついてきてしまっていた。申し訳ない気持ちで、後輩に聞き返す。 「あぁ、それで追いかけてきた?」 「違います。私の家はこっちです」  とぼけている感のある知礼だったが、意外としっかり者だった。倫礼があっけにとられているうちに、知礼は向こう側の歩道を歩いてゆく、マゼンダ色の長い髪を眺めた。 「不思議な人ですね。あ、電柱にぶつかるのを絶妙にかわしながら帰っていきます」  フラフラと人ごみを縫うように帰ってゆく月の後ろ姿を、倫礼も見つけて、出口の見えない迷路から脱出できるかもしれないと思って、後輩が落ち着きなく眺めている後ろ姿に問いかけた。 「あのさ。心理療法って家族とかも知ってるよね?」 「本人が拒否しなければ、治療内容は知ってる可能性が高いですね」  倫礼は歩道の隅に視線を落として、指を唇につけて考える。 「中学の頃から続いてる。やっぱり何かあるよね? それを両親も知らない……。何だかおかしい気がする……」  眠りの魔法をかけられた王子を救えるのか。その魔法を解く方法はどんなもなのか。何もかもがメルヘンティックでフィクションで、倫礼は茫然と立ち尽くすしかなかった。     *    翌日、七月十七日、水曜日。  梅雨の合間の晴れ間が、にわか仕込みの夏空に青を放っていた。この色があのマゼンダ色の髪に反射したら、ヴァイオレットになって、今も机の上に突っ伏して寝ている男子高校生を作り出している色のひとつになるのだろうか。  そんなことを考えていると、倫礼の視線は自然と、月へと向いてしまうのだ。恋とかそういうのではなく、彼女にとっては謎解きだ。月という男子生徒の小宇宙(ミクロユニバース)。  朝のホームルームが始まってもう少しで数分が経過するが、担任教師は珍しく遅れていて、教室はガヤガヤとしていた。だが、ガラガラと前のドアが開くと、 「静かにしにしろ」  いつもなら、先生が入ってくれば、静かになるはずのクラスメイト。それが今日は収まることはなく、倫礼のどこかずれているクルミ色の瞳からマゼンダ色の長い髪は消え失せ、教卓が映った。  するとそこには、背が非常に高く、誰がどう見ても好青年だと太鼓判を押すような青年が立っていた。 「転校生だ。はい、挨拶して」  結い上げた漆黒の長い髪。春風吹く陽だまりみたいに柔らかに微笑んで、好印象のハキハキとした声が教室に響いた。 「みなさん、初めまして。ボクは安芸(あき) 孔明と言います。神主を目指してます。少し他の世界も見たいと思って、この学校へ転校してきました。よろしく」  女生徒の黄色い声が悲鳴じみて上がった。 「きゃあっ! かっこいい!」  倫礼はそんな見た目ではなく、別のところに目がいっていた。どこかと問われたら、答えようがないが、誰からも好かれる笑顔をしている孔明をぼんやり眺める。 (何だか不思議な男子だな……)  ざわついたままの教室で、担任教師が倫礼の隣を指差した。 「席は花水木の隣だ」  女子生徒の憧れの眼差しを浴びながら、違う制服を着た青年はやって来て、椅子を引きながら、 「よろしくね」  ふたりの不思議な人物の登場で、倫礼は上の空で頭を軽く下げた。 「あぁ、はい。お願いします」  孔明は春風みたい柔らかに「ふふっ」と笑って、 「タメ口でいいよ」  同級生、クラスメイトに丁寧語。倫礼はハッとして、聡明な瑠璃紺色の瞳を初めて見た。 「あぁ、そう……だね」  だが、すぐに、昨日初めて見たヴァイオレットの瞳を思い出して、マゼンダ色の長い髪を斜め後ろからうかがい始めた。眠り王子の魔法を解いて、月を救う手立てを考えて―― 「何見てるの?」  ふと声をかけられて、倫礼は気づくと、朝のホームルームはとうの昔に終わっていて、一時間目が始まっていた。  隣で頬杖をついて、穏やかな笑みを向ける孔明と視線が合い、慌ててブラウンの長い髪を横へ振った。 「あぁ、いや、何でもない」 「そう」  短いうなずきだけが返ってきて、倫礼はまたマゼンダ色の長い髪に興味を惹かれてゆく。何がどうなって、眠りの魔法を王子はかけられて―― 「ねぇ、あそこでずっと眠ってる男子って誰?」  孔明がまた話しかけてきて、倫礼の瞳はマゼンダ色の長い髪と、凛々しい眉の両方を行き来する。 「漆橋 月くん」  自分の隣に座る女子の視線はずっと廊下側の席に座っている男子に注がれている。冷静さをたもったままで、「そう」と孔明はうなずき、あっけらかんと、 「付き合ってるの?」  見当違いも甚だしく、倫礼は授業中だということも忘れて、思いっきり聞き返した。 「はぁ?」  クラスメイトの視線が一気に集中した。数学の教科書を手にした教師から、注意が飛んできて、 「花水木と安芸、静かにしろ」  孔明は気にした様子もなく、明るくさわやかな返事を返した。 「は〜い!」 「すみません」  倫礼は気まずそうに、小さく頭を下げる。孔明は春風みたいに穏やかに微笑んで、悪戯少年みたいに舌をぺろっと出した。 「ふふっ。叱られちゃった」  倫礼は慌てて教科書とノートを机の中から引っ張り出して、シャープペンを握って、真面目に授業を受け出した。数式を書いていると、また孔明が話しかけてきた。 「彼、女性的で綺麗だよね?」 「うん、そうだね」  マゼンダ色の長い髪をちらっと見たが、さっきと同じでまったく動いていなかった。シャープペンを指の間に挟んだ孔明は頬杖をつく。 「いつ話しかけようかなぁ〜?」 「え……?」  倫礼は隣に座った、不思議な男子生徒二号の横顔をじっと見つめた。これが、不思議な雰囲気の理由だったのか。同性を好きと言うことが。  ある意味、自分に釘づけになっている倫礼に、孔明は顔を向けた。 「いつになったら起きるかな?」  BLに気圧されないように、倫礼は頭をプルプルと横に振る。 「たぶん放課後まで寝てるよ」 「そう。ずっと寝てるの?」  他の誰にも話していない話。言うわけにはいかない。だが、聞かれている。だからぼやかすしかなかった。 「そう。いつもそうで……」 「どうしちゃったんだろうね?」 「さあ?」 「ふ〜ん、そっか」  口調は適当だったが、聡明な瑠璃紺色の瞳はどこまでもクールで、月を隙のない視線でまるで獲物でもターゲッティングしたように捉えていた。  四時間目まで、倫礼と孔明が月を斜め後ろの席から眺めていたが、眠り王子が起きるのは、授業中に教師が叱る口実作りのためにわざと質問をして、どんな教科でも正確に答え時だけだった。  全ての時間で、教師は眠り王子の敗者となり、クラスメイトはその度に首をかしげるのだった。     *  食べ物の匂いが教室に広がる昼休み。  孔明の聡明な瑠璃紺色の瞳は、マゼンダ色の髪からはずされることはなく、のろのろと席から立ち上がったのを遠くから眺めていた。  手には何も持っておらず、女性的に見える男子生徒はすぐ近くのドアから廊下へ出た。 (彼が教室から出て行った。自然を装うから、今は追わない)  まだ追いかけることをしないでいると、午前中からずっと月を見ていた倫礼が隣の席で動き出した。 (彼女が立ち上がった)  頬杖をつくふりをして、孔明は女子生徒をうかがう。 (手に持ってるもの。お弁当……一人分にしては量が多すぎる)  倫礼は何かに気を取られていて、孔明が自分を見ていることにはまったく気づかなかった。  落ち着きなく彼女の上履きは少しの間ウロウロしていたが、やがて足早に教室を出ていった。 (そうなると、彼のあとを彼女が追っていったという可能性が高い)  倫礼が教室の廊下を左に曲がったのを見届けて、席を立とうとしたが、 (じゃあ、ボクも追っていけば、彼と話ができ――)  女の子の声が急に背後からかかった。 「安芸くん?」  何事もないように、孔明は好青年の笑みで振り返った。 「何〜?」 「お昼まだ食べてないよね?」 「うん、食べてないよ」  足止めだ。一秒だって遅れたら、もう追えない。休み時間や移動教室で行ったところまでは、この学校の見取り図は頭の中に入っている。だが、相手がその他へ行ってしまったら、もう探せない。 (追えなくなったかも?)  それでも、孔明は焦ることなく、席に座ったまま、イケメン転校生に取り入ろうと寄ってきた女子生徒に囲まれていた。 「よかったらこれ、私から」  購買で余分に買ってきたパンやおにぎりが次から次へと差し出される。 「あ、私も!」 「私も私も!」  あっという間に両手いっぱいになった昼食。孔明は春風みたいに微笑む。 「ありがとう」  女の子が待っていたというように話を切り出そうとした。 「それでね!」  何をしてくるなど予測済みだ、イケメン高校生には。 (一緒に食べようと誘ってくる可能性が非常に高い)  さりげなく素早くさえぎって、わざとらしく凛々しい眉を潜めた。 「あぁ、そうそう。ボク、今ちょっと困ってるんだ」  自分に取り入ろうとしている女子生徒たち。多少の難題でも耳は貸す。この理論のもとに、孔明の話は進んでいる。そうとも知らず、案の定、聞く気満々で、女子生徒たちは身を乗り出した。 「どうしたの?」  そうして、孔明はこう聞くのである。 「昼休みの、漆橋くんの居場所知ってる人いる?」 「あたし知ってる!」 「そう、じゃあ、教えてくれるかな?」  遅れはこうやって、挽回できるのだった。     *  倫礼は人気のない階段を登り切って、鉄の重い扉を開けた。入学してから一度も来たことがない屋上。夏の太陽は南の高い位置に登って、冴え渡る強い光をコンクリートのあちこちに落としていた。  追いかけてきたマゼンダ色の長い髪はここに来たはず。横道へそれるような場所はなく、途中の階段で月とはすれ違っていない。  だが、どこかずれているクルミ色の瞳には探し出せなかった。いつもより朝早く起きて作ってきたサンドイッチを抱えて、うろうろする。  ジリジリと照りつける太陽に目を細めながら、倫礼はピンと来た。自分が出てきた階段へと続く入口があるこの影にいるのではと。  回り込んでゆくと、マゼンダ色の長い髪が壁に寄りかかって、まどろみ始めたところだった。 「月くん?」  ヴァイオレットの瞳はまぶたからほんの少し顔を出して、声をかけてきた倫礼を恨めしげに見つめた。 「おや? ボクのあとをつけて来たんですか?」 「お昼ご飯ちゃんと食べるのかなと思って……」  月は手ぶらで、教室から出てきてすぐに追いかけてきた。それなのに、眠ろうとしていた。 「人間の三大欲求のふたつを突きつけられた時、僕は睡眠を取ります〜」  倫礼はひんやりしたコンクリートの上に座り込んで、カサカサと中からおしゃれな紙に包んだサンドイッチを一切れ取り出した。 「いやいや、優先順位は食べることが先でしょ? 死んじゃったら眠らないんだから」  月は頑なに拒んで手も出さず、真正面に顔を戻して、こんなことをゆるゆる〜と言った。 「死んだら永眠できます〜」  倫礼も頭が痛い限りで苦笑いする。 「確かにそうなんだけど、自虐的すぎだ……」  何を言ってものらりくらりとかわされてしまう。意外と強情な眠り王子。倫礼はスカートにも関わらず、裾も抑えず足を抱えて隣に座った。 「え〜と、どうしよう? とにかく何か食べたほうがいいよ」 「いりません〜。寝かせてください」  風で乱れたマゼンダ色の髪を額のところで手で押さえて、ヴァイオレットの瞳は重いまぶたの向こうへ消えようとした。  その時だった。好青年でありながら、春風のような穏やかな声が割って入ってきたのは。 「医食同源。違うかな? 食事をきちんと取らないと、異常な睡眠の原因を知ることもできないかもしれないよね?」 「え……?」  まさかあとをつけられているとは思わなかった倫礼はサンドイッチを出そうとしていた手を止めて、顔を上げた。  そこには夏空をバックにして、漆黒の長い髪を風に揺らし、かがみこんでいるイケメン高校生がいた。  眠ろうとしていたヴァイオレットの瞳は邪悪な色を持って、いきなり入り込んできた男子生徒に向けられた。 「安芸 孔明ですか。明後日終業式。なぜ、こちらの時期に転校してきたんですか〜?」  少し考えればおかしい限りだ。だが、孔明は「ふふっ」と軽やかな笑い声をもらして、もっともらしいことを口にする。 「気まぐれだよ。青春は短い。思い立ったら吉日って言うでしょ? だから、今日にしたんだけど……」  どうもおかしな話で、月は「そうですか〜」とゆるゆるとうなずいて、ここにあえてメスを入れた。 「ですが、なぜ、僕のそばに来るんですか〜?」  ふたりと違う制服を着た孔明は、倫礼を間に挟んで反対側のコンクリートに腰を下ろした。 「それは、ボクがキミに気があるからでしょ?」 「え……?」  やっぱりそうだったか。BLだったか。倫礼は男子ふたりに囲まれて、右に左に視線を落ち着きなく向けるを繰り返し始めた。 「おや〜? そちらはどのような冗談ですか〜?」  月はニコニコと微笑んでいたが、声は絶対に怒っているのがわかるすぎるくらい、地をはうような低さだった。  さっきまで穏やかだったのに、孔明からは春風のような穏やかさは消えて、氷河期のようにどこまでも冷たかった。 「ボクは本気なんだけど……。女性的なキミに……」  邪悪なヴァイオレットの瞳と聡明な瑠璃紺色の瞳は、倫礼を間に挟んで、真意を確かめるように、火花を散らすように見つめ合った。  夏の湿った風が、三人の間をしばらく吹き抜け、遠くのコンクリートを灼熱の陽光がジリジリと照らし続ける。男ふたりきりの世界。  倫礼はいたたまれなくなって、紙袋から残りの分を慌てて月の綺麗な手の上に無理やり乗せて、立ち去って行こうとした。 「あ、あぁ。じゃあ、私はサンドイッチだけ置いて、別の場所に行くから――」 「キミもここにいて」 「君もここにいてください」  左に孔明。右に月。両側から一斉に視線が向けられた。だが、こんなにタイミングが合うとは、これは余計ふたりきりにしなくてはと、倫礼は思い、立ち上がろうとコンクリートに手のひらをついた。 「いや、行きます!」  それはほんの一瞬の出来事で、マゼンダ色の髪がふわっと宙に持ち上がったかと思うと、横向きに落ちてきた。漆黒の髪も同じようになる。 「それでは、こちらのようにしましょう」 「こうしちゃう」  倫礼が驚き声も上げる暇なく、右の膝に月の頭が、左の膝に孔明の頭が乗ってしまった。いわゆる、ダブル膝枕である。 「いや〜! 何でふたりでしてるんですか!」  ここは学校の屋上だ。今は昼休みだ。しかも、ただのクラスメイトだ。膝枕で動きをなぜか封じられた倫礼は、何とかこの状況を打破しようとすると、凛とした儚げな声が小さくつぶやいた。 「君は暖かい……」 「え……?」  ヴァイオレットの瞳は長いまつ毛のついたまぶたに隠されていて、今にも眠ってしまいそうな月。  倫礼は違和感を強く持った。蝉は鳴いていないが、蜃気楼ができるほど熱せられた遠くのコンクリート。盛夏とまではいかないが深い青の空。 (何で、あったかいなんてわざわざ言うんだろう? 冬ならまだわかるけど、今七月だよね? どういう意味なんだろう?)  暑いはずなのに、寒気がする。真逆の感覚。倫礼はぼうっと包み紙を開けて、サンドイッチを食べようとしたが、奇妙な何か……何か……。何かに似ている、どこかでこの感覚は味わったことがある。今感じていることは、どこで……。  沈んでいたものが水面に浮かび上がってくるように、倫礼の脳裏に輪郭をくっきりと持った。誰もいないはずなのに、視線を感じる墓地――  肝試しみたいな気持ちになっている倫礼の耳に、孔明の間延びした声が入り込んできた。 「月〜?」 「おや? いきなり呼び捨てですか〜? 僕も負けませんよ〜。孔明、何ですか〜?」  同じ膝の上を右と左で共有している男子高校生に、提供者の女子高校生はツッコミを入れた。 「何でそこを張り合うんですか!」  だが、答えることもなく、髪が長い王子と転校生は勝手に話し始める。 「夜はきちんと寝てるの?」 「えぇ、寝ていますよ」 「そう。夢を見たりする?」 「えぇ、します」 「どんな夢?」 「それが、いつも同じ夢なんです〜」  やけに引っかかった。倫礼は食べるのも忘れて、ふたりの会話に耳を傾ける。 「同じ夢?」  月は目を閉じたまま、鈴をシャンと鳴らしたような声で「えぇ」と相づちを打ち、 「夏の日の公園で、僕に弟は実際にいないのに、夢の中には出てくるんです」  頬に触れる夏風がやけに遠くなり、倫礼は蝉時雨に包まれた真昼の見知らぬ公園に、空想世界で立っていた。月の続きを話す声が聞こえてくる。 「ボールで遊んでいるんですが、いつも途中で視界が真っ暗になって、大きな物音が聞こえて、そこで終わるんです〜」  学校の屋上へと意識は戻ってきて、(つき)のような綺麗な横顔を見せて、目を閉じたままの(るなす)を倫礼は見下ろした。 「それは、いつから見てるの?」 「幼い頃からです」  聞いてきた割には、孔明は返事もせず、それ以上追求もせず、三人の会話はそこで途切れた。睡魔はとうとう眠り王子を夢の世界へと連れ去った。 「……ZZZ」  倫礼はコンクリートの上に散らばったサンドイッチの包み紙を拾い上げながら、ため息をついた。 「あぁ、結局食べないで寝てしまった……」  食事もまともにしない。それほどの眠気。死線の境目でかろうじて生きている。倫礼はそう思うと、少しだけ視界が涙でにじんだ。それでも昼食を拾い集めて、紙袋へ入れると、孔明が話しかけてきた。 「倫ちゃん?」 「ん?」 「薬か何かを飲んでるって言ってなかった?」 「あぁ、言ってたけど……。飲んだ覚えがないのに、数は減ってるって」 「そう」  腕組みしたっきり、孔明は何も言わなくなった。  今聞いた夢の話もさっぱりだった。倫礼はまた途方にくれそうになるのを、原動力に無理やり変換して考え続ける 「どうすればわかるのかな?」  雲ひとつない青空が聡明な瑠璃紺色の瞳を明るく染める。 (月がいるところで、話さない方がいいかもしれない)  女子の膝の上で、他の男子の寝息を近くで聞く。そうそうないシチュエーション。  だが、孔明の心のうちはかなり深刻だった。今までの話をごまかすような言葉が、陽だまりみたいな柔らかな声で出てくる。 「こうすればいいかも〜?」 「ん? どうするの?」 「倫ちゃん、パンツ見せて〜?」 「見せないわっ!」  チェック柄のスカートの裾をめくられそうになって、倫礼は慌てて抑えた。空振りに終わった手をのんびりと戻しながら、孔明は女子高生のスカートの中を口にした。 「……黒だ」 「違うわっ! 紫!」  猛抗議した倫礼は、影になってきちんと見えなかったのだろうと勝手に判断した。だが、孔明の次の言葉はこうだった。 「あぁ、自分で答えちゃったぁ〜。ボク、見てないんだけどなぁ〜」  罠だった。倫礼は両手で頭を抱えて、悲鳴じみた声をとどろかせる。 「やられた〜!」  オーバーリアクションのクラスメイトの女子を置いて、孔明は大きくあくびをする。 「ボクも眠くなっちゃった。おやすみ〜」  聡明な瑠璃紺色の瞳もまぶたの裏に隠されて、倫礼はあっけに取られた。 「え、孔明くんまでここで寝るの?」  すぐさま心地のよい寝息がふたつになる。 「……ZZZ」  倫礼は悔しそうに唇を噛みしめた。 「膝枕という魅惑の拘束である……うぅぅ……」  この昼休みは何なのだと、倫礼は思うのだ。涙がちょちょぎれる、意味不明すぎて。月と孔明のそれぞれの思惑がわからないばかりに。  動きたくても動けない。屋上の上に貼り付けみたいな昼休み。倫礼は食べる気も失せて、ため息をつき、青空をただただ仰ぎ見る。  目を閉じて、夏の風を感じる。昼休みが終わるまでには、ふたりには是非とも起きてほしいと強く願いながら。そこで、突然キャピキャピとした少女の声が飛び込んできた。 「見ましたよ〜!」  倫礼はびっくりして、慌てて目を見開くと、赤茶のふわふわウェーブの髪をした後輩が意味ありげに微笑んでいた。 「うわっ! 知礼」  どこかとぼけている黄色の瞳は、先輩の上になだれ込んでいるふたつの長い髪を交互に見る。マゼンダ色と漆黒。 「右膝に眠り王子。左膝にイケメン神主」 「イケメン神主?」  月に夢中で、話はしていたが、神主見習いさえも聞き逃している倫礼は、自分の膝の上を見下ろして、天まで届くような大声を上げた。 「あぁっ! 本当だ、今ごろ気づいた。イケメンだった」  類は友を呼ぶなのか。こんな身近に、綺麗な男子がふたりそろっている。夢の共演である。 「膝の上にふたりも乗せてます」 「正確には乗られた。乗せてない」  ここはきちんと主張しておかないと、濡れ衣である。 「学園の女子が黙ってないかもしれませんね。午後からは、昼休みのこの事件で話は持ちきりです」  容易に想像がつく。倫礼はため息しか出てこなかった。 「はぁ……」  だが、取り越し苦労かもしれない。そう割り切って、知礼の顔を見上げた。 「お昼食べた?」 「いいえ、まだです」 「じゃあ、一緒に食べよう。私も全然食べてないから」  倫礼は紙袋から再びサンドイッチを取り出して、知礼は向かいのコンクリートの上にきちんと足をそろえて横座りした。ランチボックスを包んでいた黄色の布の結び目を解く。 「久しぶりですね、先輩とご飯食べるなんて」 「そうだね」  パクッとパンをひとかじりして、 「あっ、そうだ。知礼、夢占いってあったよね?」  フォークに唐揚げを刺したまま、黄色の瞳はどこかずれているクルミ色のそれをまっすぐ見つめた。 「あぁ、ありますね。先輩、昔はまってましたよね? 今はとんとやらなくなりましたが……」 「そうだ、調べてみよう。さっきの夢……」  サンドイッチを口にくわえたまま、倫礼はポケットから携帯電話を取り出した。 「どうかしたんですか?」 「ちょっと気になる夢があってね」  もぐもぐと器用に噛みながら、パンの白は倫礼の口の中へ入ってゆく。インターネットのブラウザ画面を、彼女は見つめる。 「兄弟……。実際にいない兄弟は、自分の一面を指す。ということは……?」  タップしていた手を画面から離して、倫礼は紙パックの飲み物を飲んだ。 「月くんの幼い面ってことかな?」  画面をバックして、別の項目をタッチする。 「ボールで遊ぶ……。丸は完成、達成を指す。ということは……?」  足し算してみて、倫礼が首をかしげると、ブラウンの長い髪がワイシャツの背中でサラサラ揺れた。 「月くんの幼い面が完成する????」  はてなマークが頭の中を大行進。携帯電話をスリープにして、スカートのポケットに放り込む。 「たぶん違うな、これ……」  惨敗した倫礼だった。 「他から探さないと、救えないや……」  今はとりあえず、ランチである。倫礼は気を取り直して、男子高校生をふたり膝に乗せたまま、まぶしく目に染む青空を見上げた。 「いい天気だね」 「はい。気持ちがいいです」  それぞれ手を動かしながら、女子トークが始まる。 「知礼、最近何してるの?」 「学校の取材をしてます」  微妙な返事が返ってきた。今いるのは、高等学校の屋上である。倫礼の視線はコンクリートの隅に落ち、力なくうなずいた。 「そうなんだ……」  だがしかし、振ってしまった以上、話は取らなければいけない。おいしそうにお弁当を食べている後輩の前で、先輩――妻は考える。そうして、ピンとひらめいた。 「知礼はノンフィクション作家だからね。それはこいうことだね。先生や生徒の考えを他の人に広めてるってことだ」  だが、後輩――妻から返ってきた言葉は手厳しいものだった。 「先輩、ファンタジーがノンフィクションになってます」 「あれ? いつおかしくなったのかなぁ〜」  倫礼は苦笑いをしながら、髪を何度もかき上げた。途中で映像は途切れ、前の動きとつながっていないところから再びスタートする。  倫礼はフルーツサンドの生クリームが手についたのをなめた。 「知礼、今の生活状況はどう思ってるの?」 「私は(ひかり)さんについてゆくまでですから……」  放送事故が起きてしまった。倫礼は落ち着きなくあたりを見渡し、 「あれ? 光さんなんていたかな?」  膝の上に乗っているイケメンふたりを見下ろした。 「ここにいるのは、月くんと孔明くんなんだけど……」  そうして、ボケた後輩から、手痛い言葉が返ってくるのである。 「先輩、ファンタジーがノンフィクションになってます」 「あれ? いつおかしくなったのかなぁ〜」  倫礼が笑いそうになるのを何とか堪えると、また途中で映像が途切れた。前の場面とまったくつながっていないところからリスタート。  サンドイッチを包んでいた紙をぐしゃぐしゃに丸めると、倫礼からこんな話が出てきた。 「知礼、こんな噂を耳にしたんだよね」 「どんなのですか?」  プチトマトを口に入れた知礼に聞き返されて、どこかずれているクルミ色の瞳は、なぜかマゼンダ色の長い髪を視界の端で捉えた。 「ある男子高校生の話で、女装して、乙女ゲームをするらしいよ」  右膝に乗っている月が寝返りを打った。知礼はそれに気づかず、本気で気になって、 「どんなのか見てみたいですね?」 「かなり綺麗らしいんだよね。確か名前はね、る、るな……?」  倫礼はわざとらしく目を閉じて、思い出そうとした。真面目な後輩から即行ツッコミだったが、 「先輩、ファンタジーがノンフィクションになってます。月さんの名前は出さないでください」 「あぁ〜、知礼、言っちゃった」  倫礼は残念そうな顔をし、知礼は不思議そうな顔をした。 「どうしてこうなったんでしょう?」 「あははははっ……!」  倫礼が珍しく笑うと、映像が途中で途切れた。そうして、また前の場面とまったくつながっていないところから始まる。  食べ終わった紙袋をコンクリートの脇へ置いて、倫礼は何気ないふりで話し出す。 「知礼、こんな噂も耳にしたんだよね」 「どんなのですか?」 「ある男子高校生の将来の姿なんだけど……」  今度は左の膝で眠っていた孔明が寝返りを打った。知礼はデザートのメロンを口へ運ぼうとしていた手をふと止める。 「父親になったとかそういうことですか?」  倫礼は軽くうなずいて、こんな話をし出した。 「そうそう。自分の息子を一日中、ずっと抱きかかえてて離さない。かなりの親バカになるらしいよ。確か名前はね、こ、こうめ……?」  わざとらしく目を閉じている先輩の前で、後輩がきっちりツッコミを入れたが、 「先輩、ファンタジーがノンフィクションになってます。孔明さんの名前は出さないでください」  実名が出てしまって、倫礼が残念そうな顔をした。 「あぁ〜、知礼、言っちゃった」 「どうしてこうなったんでしょう?」  後輩が首を傾げている向こうで、先輩は晴れ渡る青空を見上げ、 「楽しい昼休みだね〜」  両膝にイケメン男子高校生の重みを感じながら、感慨深げにため息をつくのだった。
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