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「真っ白な雪のなかに、うさぎを見たの」
彼女は言った。
「うさぎを、見つけたの」
辺り一面雪に覆われていた。
九州育ちの僕には想像も出来ない真っ白な世界。テレビや映画で観た映像としての世界ではない、もっと具象的な世界が目の前に広がった。
「うさぎも、わたしを見ていたの」
「君を?」
「そう。わたしは、雪のなかを、走ったわ。うさぎを追いかけて」
真っ白な雪の中に、彼女の小さな足跡が踊ってる。
右向いたり左向いたり。
だいぶ雪に足をとられ、よろけながら走ったみたいだ。
僕は牛乳をミルクパンに注いで火にかける。真っ白な牛乳もまた雪の世界を思わせる。
「うさぎは寒くないの。うさぎは寒さにつよいのよ」
「そうなんだ」
真っ白な雪の世界。想像しただけで僕はぶるぶると震えてしまいそうだったけど、うさぎにとってはなんでもないことなのかもしれないね。
ふと僕は電気ストーブをつけた。
僕らは余りにもうさぎじゃない。寒さにはずいぶんと弱い。
特に僕は君よりずいぶんとうさぎじゃない。
情けないことに。
牛乳が沸騰する寸前に火を止める。ミルクパンの中の牛乳はもう雪の世界ではない。
君を温める。
優しく肩を抱きしめる。
君の前に颯爽と現れた白い騎士を思わせる。
彼女はこたつに入ってみかんを食べている。
僕はこたつを出すにはまだ早いかな、と躊躇していたけど、君が戯けて、「もう、出しちゃいなよ」って言って、僕は「出しちゃおっか」って姫のお言葉に甘えて躊躇する気持ちをほっぽった。
そうして例年より早めの登板となったこたつ。
コンセントから電気をつなぐ着脱式コードが見当たらなくて、電気はつけられてないのだけれど。
彼女はその意味を成さないこたつに両足を突っ込んで、ままごとでもしてるみたいに暖かそうに、とても幸せそうにみかんを食べている。
「やっぱり、こたつにはみかんね」
こたつ気分な彼女。
「電気入ってないけどね」
ままごとに野暮なケチをつける僕。
急遽登板になったこたつは、肘だか膝だか、どこだかの故障が発覚し即刻降板となって。
代わりにマウンドに上がったのが電気ストーブだった。
僕はマグカップに入れたホットミルクを持って彼女のもとへ。
真っ白な雪のなかにうさぎを見つけたように、僕は彼女の前にマグカップを置いた。白いうさぎのキャラクターが描かれた黄色いマグカップ。
「こたつにはみかんだけど、みかんと牛乳は合わないわ」
「じゃあ、要らない?」
「飲・む・け・ど」
彼女はマグカップを両手で包み込むようにしてその温もりを感じていた。
とてもうっとりと。
僕にはホットミルクの温もりと彼女の掌の温もりがじゃれ合って遊んでいるように親密にも見えた。
いやいや、なんとも。「仲のよろしいことで」と彼女を見つめる。もう少しで妬いてしまいそうだった。相手が牛乳だと思うと我ながら馬鹿みたいだ。
彼女は夢の話を続ける。
「うさぎは、なんだか、逃げるの」
彼女は急に悲しそうな、寂しそうな目をして僕の目を覗きこんだ。
僕もなんだか、悲しくて寂しくなってしまうよ。そんな目で見るのはやめてくれないか。
「どうしてだと思う?」と彼女は訊いた。
僕は窓の外の、ガラス越しの空を眺める。
外はそんなに寒いわけじゃない。天気の良い昼下がり。青い空を見てると尚更のこと、部屋にいるより外の方が暖かいんじゃないかって思えるんだ。
はるか上空。
雲の親子は外に出かける準備をしてる。子ども雲は野球ボールを手に持ってる。お父さん雲は寒さを少しばかり苦にしながら仕方なく、勢いよくとび出す子ども雲の後を追う。
近所の公園に行くんだ。
そこで子ども雲とお父さん雲はキャッチボールをする。
子ども雲は上手になった投球をお父さん雲に自慢したいんだ。
子ども雲は寒さなんてへっちゃらだった。寒さを苦にしていたお父さん雲も、子ども雲の笑顔をみたら寒さなんてどこかに消えてしまうんだ。
「うさぎは追いかけられたら逃げるもんだよ」
僕は彼女の問いに答えた。
彼女はホットミルクを一口飲んで唇の端を白くした。
「わたしは追いつけなかったの」
その唇が、何かを告げるように動いていた。僕はその唇の動きに自分の唇を連動させる。
彼女のお告げを受け取ることが出来るだろうか?
僕はかつて、想像の中の、真っ白な雪の中を歩く、現実の白い騎士を見た。
背が高くそして高そうなスーツを着たとても立派に見える“騎士”だった。
寒さではなく震えた。
僕に勝ち目はない、とさえ思った。
彼女はうさぎじゃない。寒さに弱いし追いかけても逃げはしない。
「結局追いつけなくて、うさぎを見失って家に帰ったの」と彼女は夢の話を続けてる。
「それでね、楽しみにしてたアイスを食べようと思ったの。こたつに入って食べるみかんと同じように、こたつに入って食べるアイスもまた格別じゃない?」
確かに。そこで僕は気づく。夢でこたつを見たから、彼女はこたつを出そうと言ったんだ、と。僕は彼女の話の続きを待つ。ホットミルクを飲みながら。
「冷凍庫を開けたらアイスがないわけ。誰が食べたのよってなって、よくよく考えたら、あのうさぎが怪しくて。そうだ!あのうさぎが盗んで持っていったんだ!ってそんなオチの夢」
ちゃんちゃん。
「冷凍庫にアイスあるよ」
「ホットミルク飲みながらアイス食べられないわよ。お腹にどれだけ過酷な試練を与えるつもり?」と彼女は笑った。
僕もつられるように一緒に笑ったけど。僕の笑いは少しばかりの切なさがまじっていた。少しばかりじゃないかもしれないな。
いつまでもこうして彼女と一緒に笑っていられるのなら、そんなふうには思わないのだけど。この瞬間は余りにも瞬間で。刹那的にも感じられる。故にひどく切ない。
辺り一面真っ白な雪の世界が再び僕の目の前に広がる。
僕もうさぎじゃない。君よりもっとうさぎじゃない。ぶるぶると震えて、その寒さに耐えることは出来ない。
これじゃあ、すぐそはにいるうさぎすら見つけることも出来ないだろう。
こたつの電気コードを失くしてしまうような僕は、見つけることもできず失ってしまうのかもしれない。
「 見つけることもできず失ってしまう?」
目に見える範囲に冬はいなかった。
冬はずいぶんとまだ向こうにいるのだろう。遠慮がちに。
そんな時期に思いがけず登板となった電気ストーブに、僕のからだは充分にあったまっていたけれど。
僕の中にも、思いがけず登板となりそうな熱い想いがブルペンで投球練習をし始めていた。肩はすでにあったまっていた。
僕にはやらなきゃいけないことがたくさんある。
ただ君の笑顔を見て笑ってる場合じゃない。
お父さん雲が子ども雲の笑顔を見て笑うのとは次元が違う。僕の場合そこに覚悟が足りない。
それに雪の中を歩く白い騎士に、勝ち目がないなんて言ってる場合じゃない。
僕は勝たなきゃいけないし、そのために挑まなきゃいけない。その覚悟も足りない。
とにかく僕には覚悟が必要なんだ。
僕は真っ白な雪の中にうさぎを見つける。そして追いかけるんだ。
君は余りにもうさぎじゃない。
そして僕はもう君を見つけてる。
彼女はホットミルクを飲み干して。またみかんを食べている。
その意味を成さないこたつの中で二人の冷たい足先が刹那的にふれあった。
僕は真っ白な雪の中にうさぎを見つけるよりも先に、こたつの電気コードを見つけなきゃいけないだろうと思う。
「足、つ・め・た・い」と。
君が笑ったからだ。
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