氷村組の悲しい面々

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 永石市の北部地区には、氷村組の事務所がある。事務所と言っても、昔ながらのヤクザのそれとは根本的に違うものだ。  二十代にして氷村組の組長となった小坂惣一(コサカ ソウイチ)は……ヤクザの古くからのしきたりを廃し、氷村組の体制を一新し一般企業に近いものへと変えていった。無論、古参の幹部からの反発はあったものの、南条からの援助を受けた小坂の敵ではなかった。  結果、氷村組は見事に再生した。今では、永石市でもっとも勢いのある組織と目されている。  そんな氷村組の事務所を今、奇妙な青年が訪れていた。 「おい、何なんだよてめえは?」  若い組員は、低い声で凄む。だが、それも当然だろう。彼の目の前にいる青年は、なんと上半身裸であった。まだ暑さの残る時期であるため、寒くはないだろうが……かといってアメリカの西海岸のように、上半身裸の青年を許容するような場所でもないのだ。  事務所にいた数人の組員たちは、この闖入者をどうしたものか……と考えつつ、周りを取り囲んでいた。  いかついヤクザに囲まれた青年だったが、彼に怯む様子はない。裸の上半身は、分厚い筋肉に覆われている。ゆっくりと男たちを見回しつつ、落ち着いた様子で口を開いた。 「俺は、黒田賢一って者だ。あんたら、こないだレストランで仁龍会の幹部を襲ったよな。確か、坂口とかいう男だ。その坂口を殺したヒットマンは、今どこにいる? 教えれば、痛くないように一瞬で殺してやる」  賢一の言葉に、組員たちは顔を見合わせた。彼らは、目の前の青年から不気味なものを感じ取っている。これが路上にて一対一で対峙しているという状態なら、ヤクザといえども慎重に動いていただろう。  だが、ここは彼らの事務所である。しかも、周囲には仲間がいる。仲間の目がある以上、ナメられるような真似は出来ない。 「はあ? てめえ、頭大丈夫か? 悪いことは言わねえ。ケガしないうちにさっさと頭の病院に帰って、薬飲んで寝た方がいいんじゃねえのか」  いかにも余裕たっぷりの口調で、ひとりの組員が言った。さらに、別の組員も余裕の表情を作って見せる。 「お前、格闘技か何かやってるみたいだな。いい体なのは認めるよ。さぞかし喧嘩も強いんだろう。だがな、俺たちのはガキの遊びとは違うんだ。プロの喧嘩なんだよ。ヤクザからかうと、シャレになんねえぜ」 「シャレにならない、か」  そう言うと、賢一は事務所の中を見回した。落ち着いた雰囲気であり、並べられた机の上にはパソコンが置かれている。余計な調度品などは一切置かれていない。映画やドラマなどで描かれているヤクザの事務所とは、完全に真逆である。組事務所というよりは、オフィスと呼んだ方がしっくりくるであろう。 「とりあえず、ここはヤクザの事務所っぽくないなあ。らしさが足りない。模様替えが必要だな。今から、ヤクザの事務所にふさわしいデザインに変えてやるよ」  言った直後、賢一は牙を剥き出しニヤリと笑った。  直後、彼の肉体が変化を始めた── 「う、嘘だろ……」  組員たちは、その場で硬直した。先ほどまでの、勇ましい態度が嘘のようだ。  それも当然だろう。彼らの目の前で、理解しがたい現象が起きていたのだ。賢一の上半身の筋肉が瞬時に肥大化していき、さらに獣のごとき白い獣毛に覆われていく。  同時に、腕の形状にも変化が生じていた。五本の指を持つ筋肉質の人の腕……それが今では、猛獣の前足へと変わっているのだ。常人のウエストほどの太さと、鋭い鉤爪を持つ前足へと── 「な、なんだこいつ」  賢一の目の前にいた組員が、呟くように言った。  それが、彼の最期の言葉となる。賢一が腕を振るった途端、組員は軽々と飛ばされた。数メートルほど吹っ飛び、壁に叩きつけられた。  直後、ぐちゃりという音と共に無残な死体となる。もはや、人間としての原型をとどめていない。  愕然となる組員たちに、賢一はにっこり微笑んだ。 「さて、模様替えの始まりだ。俺の中の芸術を、思いきり爆発させてやる。見る者の心を打つデザインにしてやるよ」  言った直後、賢一の目に狂気の光が宿る──  獣と化した賢一は、衝動のまま牙を剥き出し、爪を振るう。標的となった組員は、玩具のように軽々と飛ばされ、天井へと叩きつけられた。直後、べちゃりと潰れる。  賢一は、なおも動き続けた。彼が獣の前足を振るうたび、組員が潰れたミンチへと変わっていく。相手の返り血や肉片を浴びる度に、魔獣の本能が喜びに震える──  やがて、殺戮の時間は終わった。  掃除が行き届いており、ゴミひとつ落ちていなかった事務所。だが今は、血と肉と臓物が撒き散らされた修羅場と化していた。  人肉処理場と化した事務所の中で、、ひとりの若い組員が震えたまま立ちすくんでいた。無論、彼に戦う気などない。恐怖のあまり、動けないのだ。  そんな組員に、賢一は落ち着いた口調で語りかける。 「なあ、あんた。ヒットマンの居場所はどこだ? 知らないなら死んでもらう」  「い、言います! だから、命だけは助けて──」 「どこだ?」  命乞いの言葉を遮り、冷たい口調で尋ねる。 「み、南地区の氷文町(ひぶんちょう)にいます!」 「氷文町のどこだよ? 俺に、しらみ潰しに捜せってのか?」  賢一の目が吊り上がった。組員は、慌てて言い添える。 「お、沖田工業所とかいう潰れかけた工場にいるはずです! ああ、だから俺は嫌だったんだ……あんなわけのわからない外人を使うなんて──」 「黙れ」  組員の言葉を遮り、賢一はじろりと睨みつけた。途端に、相手は悲鳴を上げる。  賢一は手を伸ばし、組員の顔面を鷲掴みにする。 「一応、約束したからな。命だけは助けてやる。その代わり、ヤクザなんか今日限り辞めるんだ」  全身に付着した返り血を綺麗に拭った後、事務所からあるだけの金と体に合いそうな服を奪い、外に出て行った。まだ日は高く、周囲には人の往来が絶えていない。事務所で起きたことには、誰も気づいていないようだ。  そんな中、賢一は目立たないようさりげなく歩いていた。これからどうしたものか。  ヒットマンを殺した後は、何をすればいいのだろう。  そんなことを考えつつ、賢一は車に戻った。  車内では、真理絵と優愛が何やら楽しそうに会話をしている。実に微笑ましい光景であった。  思わず笑みを浮かべながら、賢一はサイドウインドウをこんこんと叩いた。すると、二人ともニコニコしながらドアを開ける。 「なあ、飯食べにいかないか?」  賢一の言葉に、母と娘は嬉しそうに頷いた。  北地区と南地区のちょうど境目に位置する商店街。  その外れに建っている大衆食堂に、三人は入って行った。店はお世辞にもお洒落とは言えないが、どこか懐かしい雰囲気が漂っている。年老いた夫婦らしき男女が、店の中で働いていた。  真理絵と優愛は普通の定食を頼んだが、賢一は目に付いたものを片っ端から注文し、瞬時に平らげていく……その食べっぷりに、母娘は目を丸くしていた。 「けんいちは、いっぱいたべるんだね!」  優愛が驚きの表情を浮かべながら言うと、真理絵がたしなめる。 「優愛、ダメでしょ。賢一さんて呼びなさい」 「いいよ、賢一で」  そう言うと、優愛は嬉しそうに笑った。真理絵も、笑みを浮かべた。  だが、その表情が一変する。 (次のニュースです。真幌市に住む天道富雄さんが、自宅にて遺体となって発見されました。遺体は死後数日が経過しており、妻の真理絵さんと娘の優愛ちゃんは行方不明となっております。警察は、この二人が何らかの事情を知っているものと見て、行方を追っています)  テレビから流れる音声に、真理絵は青い顔で耳を傾けていた。その体は、小刻みに震えている。  彼女は今、改めて理解したのだ……自分が富雄の命を奪った殺人犯であり、警察に指名手配されているということを。  今までのような穏やかで優しき日々は、もう二度と戻って来ないという事実を。  真理絵は今、己の未来に待ち受けている運命に打ちのめされていた。恐ろしい現実を前に、ただただ震えるばかりだった。  その時、予想だにしなかったことが起きる。賢一が手を伸ばし、彼女の手を握りしめたのだ。 「だ、大丈夫だよ。俺が付いてるから。な、何があろうと、俺がそばにいるから……」  ぎこちない言葉と行動は、反射的に出ていたものだった。  同時に彼は、自分の言動に矛盾を感じていた。何人もの人間を、ためらうことなく殺してきた。この母娘にしても、初めのうちはどうでも良かったはず。  だが今は、真理絵と優愛の仲睦まじい姿を見ていたかった。二人の存在が、たまらなく愛しい。  人殺しが大好きな、血に飢えた獣の自分が。  賢一は、じっと真理絵の手を見つめた。同時に、自分の手も。  先ほどは、相手の流した血で真っ赤に染まっていた己の手。今は、汚れひとつ無いようには見える。だが、血の穢れだけは……どんなに洗っても、落とすことは出来ない。  その時、不意に真理絵が口を開いた。 「ありがとう、賢一」  彼女の言葉に、賢一は顔を上げる。  真理絵と優愛が、真っ直ぐこちらを見ていた。その瞳には、深い感謝と親愛の情がある。それは、とても暖かく心地よいものであった……。  様々な感情が胸に湧き上がってくるのを感じ、賢一はそっぽをむいた。 「は、早く食べろよ」  食べ終えた三人は、車へと戻って行った。 「それで、次はどこに行くの?」  運転席の真理絵が尋ねる。彼女は、腹を括ったらしい。昨日までの弱々しい雰囲気が消え失せていた。その代わりに、強い意思が感じられる。賢一は圧倒されるような何かを感じ、思わず目を逸らした。 「さ、さあな。まだわからない」  彼の口から出たのは、そんな頼りない言葉であった。まさか、真理絵がここまで変わるとは思っていなかった。  さらに、この親子を自分の復讐に付き合わせていいのか……という思いもある。無論、二人を守ってやりたいという気持ちは変わっていない。しかし、自分は人間ではない。 そう、今の賢一は化け物でしかないのだ。果たして、二人のそばにいていいのだろうか。  その時、頭をこつんと叩かれた。 「ちょっと、しっかりしなよ。もし悩みがあるなら、お姉さんが聞いてあげるから」 「お、お姉さん?」  うろたえる賢一を、真理絵は怖い顔で睨んだ。 「何よ……お姉さんじゃなくておばさんだ、とでも言いたいの?」 「い、いや、違う」
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