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沖田工業所は、かつては自動車を修理する工場であった。だが三年ほど前、持ち主が借金苦から首を吊った。その後は南条真吾が買い取り、手下たちの住居兼倉庫として使っている。
そして現在、住んでいるのは大柄な外国人の男であった。
トニー・タブスは、一月ほど前にキリーの誘いで来日し、工場の二階に住んでいる。狭い部屋だが、住み心地は悪くない。
本国では追われる身であった。外出する際には、周囲に気を配っていた。だが、ここ永石市では誰に怪しまれることもない。なにせ、世紀末シティなどと揶揄される街だ。トニーのような人相の悪い外国人が昼間から徘徊していても、怪しむ者などいない。堂々としていられる。
「ねえトニー、そろそろネタ買いに行かない?」
けだるそうな声で聞いてきたのは、狩野和代という女である。この女、顔は綺麗だしスタイルも悪くない。だがヤク中である。腕を見れば、ポツポツと注射痕が目立つ。キリーから、トニーの世話を仰せつかっているのだが、どちらかというとトニーの方が彼女を世話しているような感じだ。
実際、今も下着姿でふらふらしている。目は充血しており、足取りもおぼつかない。このままひとりで外に出したら、まずいことになりそうだ。
「またかよ。お前、ほどほどにしとけ」
トニーもドラッグはやる。戦場での恐怖を紛らわせるのが目的だ。もっとも、狩野のように年中やっているわけではない。やり過ぎると、仕事に支障が出る。
だが、狩野の方はお構いなしだ。
「いいじゃん。行こうよ」
言いながら、狩野は彼の腕を掴む。
その時だった。外から、異様な声が聞こえてきた。
「おーい、遊びに来たよう」
緊張感のまるでない、間延びした声だ。二人は、思わず顔を見合わせた。
「な、何よ今の?」
すぐに異変を感じた狩野は、険しい表情で周囲を見回す。ヤク中特有の挙動不審な態度だ。
しかし、トニーは肩をすくめるだけだった。
「どうせ、バカな日本人のガキが入りこんだんだろ。行って追っ払ってくるぜ」
トニーは勢いよく立ち上がり、ドアに向かう。だが、その動きは止まった。
突然、凄まじい音が響き渡ったのだ。たとえるなら、二台の車が全速力で正面衝突したような音である。
二人は、またしても顔を見合わせた。
「ちょっとお、今の何なのよう?」
狩野の言葉に、トニーは鋭い表情で答える。
「お客さんのようだな。気をつけろ」
言うと同時に、傍らにあった机の引き出しを開けた。中から黒光りする拳銃を取りだし、安全装置を外す。
居住スペースの窓から、そっと下を見てみた。その途端、愕然となる。
一階に設置されていた、分厚い鉄の扉が引きはがされていたのだ。しかも、扉の残骸とおぼしき物体が、工事内に無造作に放置されている──
トニーは、窓から一階の中を見渡した。だが、侵入者の姿はない。だだっ広い工場の中は薄く、不気味な空気に満ちている。彼は、目線を室内に戻した。
「誰もいない。どうなってるんだ?」
「こうなってるんだよ」
答えたのは、狩野ではない。見たこともない日本人の若者だった。いつの間に入り込んだのか、部屋の中央に突っ立っている──
「お前、誰だ?」
低い声で、目の前の男に尋ねた。
年齢は、二十代の前半だろうか。背は高くがっちりしており、黒い髪は肩まで伸びている。上半身は裸で、分厚い筋肉に覆われていた。顔は野獣のようにいかつく、余分な脂肪が付いていない。こちらを見つめる目は鋭く、なぜか猛獣を連想させた。
トニーは、ぞくりとするものを感じた。目の前にいる男は、自分よりも若く体も大きい。素手の喧嘩は強そうだ。しかし、武器らしきものは何も持っていなかった。今、手にしている拳銃のトリガーを引けば簡単に倒せるはずだ。
だが、その体から醸し出している雰囲気は、尋常なものではない。得体の知れない何か……暗闇に棲む怪物と向き合っているような、そんな奇怪なものを感じる。
トニーは昔、軍人だった。物資の横流しがバレて日本に逃げて来たのだが、それまでは戦場にいた。敵との交戦経験も複数回あった。敵兵を射殺したことも珍しくない。人を殺すことなど、何とも思っていなかった。その腕前と日本語の能力を買われ、キリーにスカウトされ日本に来たのである。
そんな生活の中で培われた勘が、彼に告げている……目の前にいる若者は、人間ではない。
残念ながら、狩野は男の醸し出す匂いに気づいていなかった。
「何してんだよ! さっさと撃っちゃいなよ!」
すると、男は彼女の方に視線を移す。
「お前は関係ない。さっさと失せろ。でないと殺すぞ」
・・・
賢一は迷った。
目の前には、大柄な外国人と化粧の濃い日本人の女がいる。この二人を殺すのは簡単だ。しかし、女は関係ない。おかしな薬物をやっているような匂いはするが、逃げるなら放っておくだけだ。
そんな気遣いは、全く無用のものだった。女は、何やら喚きながら拳銃を取り出す。
何のためらいもなく、賢一に銃口を向けた。
「このクソが! 死ね!」
吠えながら、トリガーを引く……何度も、何度も引き続けた。
放たれた弾丸は、全て賢一に命中する。この女、拳銃を撃ったのは初めてではなさそうだ。
室内には、硝煙の匂いがたちこめた。数発の銃弾を受けた賢一だったが、微動だにしていない。女に、冷ややかな視線を向けたままだ。
一瞬遅れて、体内から弾丸が押し出されていった。潰れた鉛の弾丸が次々に押し出され、カランと音を立てて床に落ちる。直後、弾痕はふさがれていった。一秒もしない間に、傷は修復されていく──
この不思議な光景を、女はぽかんと口を開けて見ている。賢一は、面倒くさそうにため息を吐いた。
「失せる気ないのか。じゃあ仕方ねえな。死なすけど、後で文句言うなよ」
直後、ぶんと手を振った。それは、あまりにも無造作な動きだった。宙を舞う虫を払うような動作である。
にもかかわらず、その手が当たっただけで女は吹っ飛んでいった。トラックにでも跳ねられたかのように、軽々と飛んでいく。数メートル先の壁に叩きつけられ、ぐしゃりと潰れた。
一瞬遅れて、全身から血や体液を吹きだしながら、ずるずると壁を落ちて行った。もはや、女とも呼べない一個の肉塊と化している。痛みを感じる暇なく死んだのが、せめてもの幸いであろう。
「て、てめえ……何なんだ」
震える声で言いながら、トニーは後ずさる。彼は、自分でも認めたくないほどに怯えていた。泥水をすすりながら暗闇のジャングルの中でゲリラと交戦した経験があるし、銃弾の飛び交う中で一晩過ごしたこともある。
しかし、トニーの目の前にいるのは……ゲリラなど比較にならないくらい恐ろしい存在であった。こんな奴と遭ったのは初めてだ。どうすればいいのかわからない。
そんなトニーに向かい、賢一は静かに口を開く。
「あんた、レストランで仁龍会の幹部を殺したろ?」
「いや、そんなの知らない、俺じゃない」
慌てて、首を横に振った。すると、賢一の目が吊り上がる。
「俺の鼻をごまかせると思ってんのか? あんたの体から、嘘の匂いがぷんぷんしてんだよ」
一歩、前に踏み出した。その瞬間、トニーの表情が歪む。
「く、来るなあぁ!」
喚きながら、拳銃のトリガーを引く。何かに憑かれたかのように、銃を撃ちまくる──
発射された弾丸は、賢一の体に炸裂する。だが、彼はクスリと笑うだけだった。
「てめえはバカなのか? さっきの見てたろうが。そんなもんじゃ、痛くも痒くもねえんだよ」
言いながら、手を伸ばし拳銃を奪い取る。トニーは恐怖のあまり、されるがままになっていた。
次の瞬間、グシャッという音がした。頑丈なはずの拳銃が、粘土のように簡単に握り潰されたのだ──
「ば、化け物だあ!」
トニーは、その場から逃げ出した。もはや、彼の理性は吹き飛んでいる。これまで戦場で生き、大勢の敵兵を殺して来た。だが、目の前にいる男は、銃で武装した兵士など比較にならない。そもそも、こんな生物が存在するはずがないのだ。
そう、これは本物の怪物だ──
声にならない叫び声を上げ、トニーは逃げた。狭い居住スペースを、這うようにして進んでいく。彼は恐怖で判断力を失い、ただた賢一から離れることしか頭に浮かばなかったのだ。
その無様な姿を見て、賢一はくすりと笑った。
「お前、アホか。こんなクソ狭い中で、どこに逃げようってんだよ」
そう言うと、賢一はゆっくりと後を追う。慌てる必要はなかった。逃げられる場所などないのだから。
トニーは、すぐに壁際に追い詰められた。怯えた表情で、賢一を見上げる。身を守ろうとでもいうのか、両手を前に突き出す。迫る危険を、少しでも遠ざけようという本能的な防御の動きであった。
だが、賢一の前には何の役にも立っていない。その突き出された右腕を掴む。
一瞬で握り潰した──
「ひぎぃやあぁ!」
トニーは悲鳴を上げる。彼の右手は、完全に砕け原型を留めていない。肉と、突き出た骨と血がぐちゃぐちゃに混ざり、不気味な物体と化している。
だが、賢一はそこで終わらせる気はなかった。
「痛いか? だがな、今の母さんと父さんは痛みすら感じられないんだよ」
言いながら、拳を振り上げた。トニーの腹に振り下ろす。
その一撃で、トニーの内蔵は破裂した。直後、彼は苦悶の表情で痙攣を始める。
賢一は舌打ちした。手加減したつもりだったのだが、それでも強すぎたらしい。このままでは、数分で死ぬ。
死ぬ前に、吐かせなくては。
「おい、まだ死ぬな。あの時、もうひとりいたろ。そいつは、今どこにいる?」
「し、知らない」
「嘘つくな。さっさと言えよ。言えば、すぐに殺してやる。言わないと、もっと痛くするぞ」
言いながら、トニーの左腕を掴む。
ボキリ、という鈍い音がした。直後に激痛が走り、トニーはのたうち回る。今度は、前腕の骨が砕けてしまったのだ。
トニーは傭兵である。彼は拷問に耐える訓練も受けているし、情報を小出しにして上手くごまかす術も知っている。
だが彼の頭からは、そうしたテクニックが完全に吹き飛んでいた。賢一という、今まで見たこともないような怪物に対する恐怖。さらに、想像を絶する激痛。もはや、今の状況から解放される以外のことは考えられなかった。
「わかった……言うよ。マイクはピーチピットっていう酒場にいる。お願いだから助けてくれ……」
涙と鼻水と涎を撒き散らしながら、トニーは答えた。その声はかすれ、囁くような音量である。内蔵が破壊されているせいで、腹に力が入らず大きな声が出せないのだ。
そんなトニーとは対照的に、賢一は訝しげな表情で首を傾げる。
「マイク? それが、お前の相棒の名か。今、ピーチピットに住んでいるんだな? 間違いないな?」
「そうだ……頼む、病院に連れて行ってくれ。なんでもするから──」
「悪いな。今は忙しいし、俺は病院は嫌いだ。まあ、素直に教えてくれたから、痛くないよう殺してやる」
言った直後、賢一の手が伸びた。トニーの頭を掴む。
その頭は、一瞬で破裂した。
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