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ピーチピットは、永石市の南地区にある酒場だ。四階建てビルの一階にて営業しており、悪党たちの集まる店として知られている。なにせ、世紀末シティなどと呼ばれる町だ。住人はヤクザ、チンピラ、半グレ、不良外国人、逃亡中の指名手配犯……といった者たちである。
マイクは、そのピーチピットの用心棒のような立場であった。普段は店の上の階に寝泊まりしており、営業時間中は事務室のモニターから店の様子を見ている。何か事が起きれば、すぐさま出て行く。彼は百九十センチで百キロの体格であり、傭兵としてあちこちの戦場を渡り歩いた経験もある。日本のチンピラなど、簡単に捻り潰せた。
しかも、この店のオーナーはキリー・キャラダインである。永石市では、かなりの顔役だ。好き好んで、騒ぎを起こそうなどというバカ者はいない。ヤクザや外国人マフィアたちも、このピーチピットではおとなしくしていた。もっとも、たまに飲みすぎて羽目を外す者もいる。マイクの主な役目は、そうした連中を追い出すことであった。
その日、マイクは夕方近くに目を覚ました。朝食と呼ぶには遅すぎる食事の後、ゆっくりと体を動かす。これは、傭兵だった時代から続く習慣である。もうすぐ四十歳になるが、筋肉質の逞しい体を維持していられるのは、この習慣のおかげだ。
マイクは、今の生活に満足していた。傭兵として、紛争地帯で命のやり取りをしていた日々に比べれば、本当に楽なものだ。たまに血生臭い仕事の依頼もあるが、弾丸の飛び交う戦場に比べれば遥かにマシである。
だが、その日はいつもとは違っていた。
床でストレッチをしていた時、異変を感じた。何かおかしい。
ゆっくりと体を起こした。周囲は、静まりかえっている。物音ひとつしない。まだ店が開く時間ではないから、当然といえば当然なのだが。
にもかかわらず、強烈な違和感を覚えた。
「どうなってるんだ?」
言いながら、彼は立ち上がった。机の引きだしから、拳銃を取り出す。
その途端、下から、凄まじい轟音が聞こえて来た。重機が正面衝突したような音だ。次いで、揺れのようなものを感じる。
地震か? いや、そうは思えない。
何が起きているにせよ、用心だけはしなくては。マイクは弾丸の装填を確認し、安全装置を外した。音を立てずに歩き、静かに部屋のドアを開ける。
何も聞こえない。廊下は、しんと静まりかえっている。
マイクは、拳銃を構えて外に出た。慎重な足取りで、エレベーターに向かい歩いていく。
エレベーターは、一階で止まっていた。マイクは、思わず苦笑する。自分はどうかしている。このところ、平和すぎる日々が続いていたせいで、神経がおかしくなっていたのかもしれない。
その時、エレベーターが動き出した。上昇を始める。誰か来たのだろうか。もしかすると、次の仕事の依頼かもしれない。
やがて、エレベーターはマイクの目の前で止まった。一瞬の間を置き、ドアが開く。
そこにいたのは、数体の死体だった。両手両足をバラバラにちぎられ、人形のように無造作に放置されている──
「ひいぃ!」
マイクは、悲鳴を上げて後ずさった。こんな殺し方は、まともな人間には出来ない。出来るはずもないのだ……。
その時、声が聞こえた。
「お前がマイクか」
振り返ると、通路にひとりの男が立っている。異様な風体だった。大柄な体格であり、身長は百八十センチを超えているだろう。肩幅は広くがっちりしていて、胸板は分厚い。黒髪は肩まで伸びており、野生味あふれる顔立ちだ。
マイクは、反射的に拳銃を向ける。
「お前、誰だ? 何しに来た?」
震える声で尋ねた。この男が、エレベーター内の惨劇の犯人であろうか。だとしたら、何のためにこんなことをした?
すると、男はニヤリと笑った。
「俺の名前は、黒田賢一だ。お前に殺された黒田夫妻の息子だよ。俺もお前らに殺されたけどな、地獄から蘇ったぜ。何か文句があるか?」
「な、何を言ってるんだ? 俺は、そんな奴知らないぞ」
慌てて否定するマイクを、賢一は鼻で笑った。
「ほう、そうかい。つまり、今まで大勢殺したから、ひとりひとりの名前なんか覚えちゃいねえってわけか」
「い、いや、あの、本当にわからねえんだ」
言いながら、マイクは後ずさって行った。目の前にいる男からは、得体の知れない何かを感じる。生まれて初めて味わう感覚だ。
いや、これはあの時に似ている。初めて、本格的な戦闘に突入した時の恐怖。銃弾が飛び交い、隣にいた戦友が顔面を撃ち抜かれて即死した──
「まあいいや。思い出そうが思い出すまいが、どの道お前は死ぬんだからな」
そう言うと、賢一はゆっくり近づいていく。
直後、マイクは発砲した。狭い廊下の中で、銃声が響く。次いで、薬莢の転がる音──
「バ、バカな……」
それきり、マイクは絶句した。彼の放った銃弾は、確かに賢一の体に当たっている。左胸に炸裂し、はっきりとした弾痕を残していた。
にもかかわらず、この男は平然とした様子で立っているのだ。
「お前らみたいな人種は、やることが同じなんだな。芸がなさすぎる。実につまらん」
呆れたような口調で言いながら、賢一はかぶりを振った。
直後、彼の体から何かが押し出される。今、撃ち込まれたばかりの弾丸だ。鉛の弾丸は、ひとりでに賢一の体から出ていき、カランと音を立てて床に落ちた。
唖然となるマイクの前で、さらに奇怪な現象が起きる。賢一の左胸に空いていた弾痕が、みるみるうちに癒えていったのだ。血がひとりでに体内に入っていき、肉が穴をふさぎ、皮膚が覆っていく。
こんなことは有り得ない。
「ひとつ教えてやる。お前の相棒だったトニーも、バカのひとつ覚えみたいに拳銃をぶっ放したんだよ。お前ら外国人は、よっぽど銃が好きなんだな」
とぼけた口調で賢一が言ったが、マイクはそんな言葉は聞いていなかった。向きを変え、階段へと逃げ出す──
階段に辿り着き、いざ降りようとした時……マイクは愕然となった。降りるための階段は、巨大な鉄塊で塞がれている。見れば、スクラップと化した車だ。こんなものを、狭い通路にどうやって押し込んだのだ──
いや、そんなことはどうでもいい。こうなった以上、上の階に行くしかない……彼は、無我夢中で階段を駆け上がる。少しでも、あの化け物から距離を置きたかったのだ。
それに、上の階にはもっと強力な武器がある。あれなら、奴を殺せるかもしれない。
「おいコラ、じたばたすんな」
賢一は、ゆっくりと階段を上がっていく。上の階に逃げるとは、実に愚かな男だ。もはや、奴に逃げ道はない。
もっとも、そうなるように細工したのは自分だが……賢一は上の階に行き、ドアを開ける。
その途端、体に衝撃を感じた──
パタパタパタ……という、渇いた音が通路内に響き渡った。同時に、大量の銃弾が賢一に撃ち込まれる。辺りには、硝煙の匂いが立ち込めた。
マイクが、上の部屋に置かれていた自動小銃を乱射したのだ。数十発の弾丸が、賢一の体にめり込んでいく。
やがて、弾丸は尽きた。しかし、これで終わらせる気はない。マイクは英語で何やら喚きながら、素早く弾倉を交換した。
銃口を賢一に向け、さらにトリガーを引く。またしても、乾いた音が響き渡るり。数十発の弾丸が、賢一の体を貫いていった──
普通の人間ならば、銃弾の集中砲火を浴びて原型すら留めていなかっただろう。数百キロある大型の獣でさえ、これだけの銃弾を受ければ生きていなかったはずだ。
ところが、賢一は立っていた。人間ならば、たっぷり十人は殺せるであろう量の銃弾を浴び、体は弾痕だらけだ。血は大量に流れ、肉や骨がはみ出ている箇所もある。
にもかかわらず、微動だにしていない。
驚愕の表情を浮かべるマイクの前で、賢一はつまらなそうにかぶりを振った。
「あのなあ、そんなもんじゃ効かないんだよ。まったく、お前らは何でもかんでも銃でケリをつけようとするんだな。これも、銃社会の弊害なのかもしれないな」
もっともらしい顔で言いながら、ひとりでウンウンと頷く。
直後、一瞬で間合いを詰めた。同時に、拳を振り上げる。だが、マイクは何の反応も出来なかった。そもそも、自動小銃の弾倉が空になるまで弾丸を撃ち込まれたのに、平然とした顔で立っている怪物を相手に、何が出来ただろう。
賢一の拳が炸裂し、マイクは数メートル先の壁に叩きつけられた。痛みを感じる間もなく死んだのが、唯一の救いだろうか。
賢一は、一個の肉塊と化したマイクをじっと眺めた。
これで、実行犯の二人を片付けることが出来た。次は、彼らに指示を降した者たちを狙う……はずだった。父と母が死んだ事件にかかわった者は、皆殺しにするつもりで、ここまでやってきたのだ。
しかし今は、その気持ちが揺らいでいる。人を殺すたび、自分に流れる魔獣の血が沸き立つのだ。今の彼は、殺しに喜びを感じている。
このまま人を殺し続ければ、いずれは心まで怪物となってしまうのではないだろうか。
その時、賢一の頭に真理絵と優愛の顔が浮かんだ。二人とも、優しく微笑みかけてくれる。
人間でないものになってしまった自分に、全幅の信頼を寄せてくれている。
俺は、どうすればいい?
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