賢一の休息

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 賢一は、目を開けた。  ベッドから上体を起こし、ゆっくりと左右を見る。狭い部屋だが、居心地は悪くない。  さて、これからどうしよう。  彼は今、永石市の南地区にあるビジネスホテルに泊まっていた。一応、金はある。大金といっていい額だ。しかし、あまり目立つわけにもいかない。なにせ、真理絵は人を殺して逃げている身なのだから……高級ホテルに泊まって、万が一通報されたりしては困る。  そこで、場末のビジネスホテルに泊まることにしたのだ。受付は、やる気のなさそうな中年男である。客も、訳ありのような雰囲気の者ばかりだ。サングラスにキャップで顔を隠している真理絵だが、この永石市では通行人のひとりでしかない。  賢一と母娘(おやこ)は、別々の部屋に泊まった。  体を起こし、時計を見る。午前十時だ。  あの二人は、大丈夫だろうか……などと思っていた時、ドアを叩く音がした。 「けんいち、あそぼ!」  外から聞こえてきたのは、優愛の声だ。  ドアを開けた途端、満面の笑みを浮かべて飛びついて来る。賢一は、彼女を軽々と抱き上げた。 「朝ご飯は食べたか?」 「もうたべたよ」 「じゃあ、今日は外で遊ぶか」 「うん!」  とても嬉しそうな声だ。賢一の顔も、思わずほころぶ。  だが、そこで疑問が浮かんだ。 「ママはどうしてるんだ?」  その言葉に、優愛の表情が曇る。 「あのね、ままはいきたくないって……」 「そうか。体の具合でも悪いのか?」  その問いに、少女はかぶりを振った。恐らく、通報されるのを警戒しているのだろう。  しかし、ずっと閉じこもっているわけにもいかない。賢一は優愛を連れ、真理絵のいる部屋へと向かった。  ドアの前に立ち、トントンとノックする。  ややあって、ドア越しに声が聞こえてきた。 「だ、誰?」 「賢一だよ。優愛も一緒だ」  答えると、少しの間を置きドアが開く。中から、真理絵が顔を出した。どこか不安げな様子だ。  賢一は、出来るだけ明るい声を出した。 「なあ、優愛と一緒に外に出ないか? ずっと閉じこもってたら、気が滅入って来るだろ」 「む、無理だよ。あたしは……」  そこで、真理絵は言い淀んだ。娘の前で、警察に追われている……などという話はしたくないのだろう。  しかし、優愛はお構いなしだ。母の手を握ると、強引に引いて行く。 「まま、いこ!」 「で、でも……」 「だいじょうぶ! けんいちが、まもってくれるから!」  言いながら、優愛は母の手を引く。さらに、賢一も頷いた。 「何があろうと、俺がついているよ」  三人は、ホテルの外に出た。  世紀末シティなどと呼ばれている永石市だが、ここから見る限りでは普通の町に見える。モヒカンの男たちが暴れているわけでもなく、銃声が聞こえてくるわけでもない。  それでも、注意深く観察してみれば……道端には、吸い殻や空き缶に混じり注射器が転がっていた。また、道ゆく人たちの身なりや顔つきは、明らかに堅気の者とは違う。皆、特有の空気を放っていた。  そんな彼らも、賢一が通るとすぐに道を空ける。裏の世界の住人であるからこそ、この男の(うち)に潜む強烈な暴力性を察知し、争いを避ける選択をさせたのだ。    泊まっているホテルから五分ほど歩くと、小さな公園があった。ブランコや巨大な滑り台、木製のベンチなどが設置されている。さらに、数人の怪しげな男たちがたむろしていた。  賢一はずかずか踏み込んで行き、じろりと男たちを見回した。その途端、男たちの顔色が変わる。何事もなかったかのように、そそくさと引き上げていく。  すると、優愛が嬉しそうに駆け出していった。巨大な滑り台の階段を、楽しそうに駆け上がって行く。 「気をつけるのよ」  真理絵が声をかけるが、優愛は聞いていないらしい。楽しそうに上に昇ると、ドヤ顔で二人を見下ろした。 「まま、いくよ!」  嬉しそうに叫ぶ。次の瞬間、ビュンと滑り降りて来た── 「おいおい、大丈夫かよ」  笑みを浮かべる賢一。優愛はといえば、怖さよりも楽しさの方を強く感じたようだ。しゅたたた……と小走りで階段へと向かい、ふたたび滑り台のてっぺんへと登っていく。よほど楽しかったのか、満面の笑みを浮かべている。  その時、真理絵の声が聞こえてきた。 「ねえ賢一、お願いがあるの」  先ほどと違う暗い雰囲気に、賢一は戸惑いながら返事をする。 「な、なんだ」 「あたしに何かあったら、優愛のことを頼むね」  そう言って、真理絵は微笑む。だが、その笑みはどこか寂しげだった。何かあったら……つまりは、逮捕されたらということだろう。賢一は、冗談めいた口調で言葉を返す。 「何を言ってるんだよ──」 「お願いだから、約束して。あの子を守ると」  見つめる真理絵の表情は、真剣そのものだった。その目力に気圧され、賢一は目を逸らした。 「や、約束するよ。とりあえず、コンビニで菓子でも買ってくる」  そう言うと、逃げるようにコンビニへと走って行った。  ベンチで仲睦まじくお菓子を食べている、真理絵と優愛。  賢一は、そんな二人の隣に座っている。母娘の仲の良い姿を見ているだけで、賢一の胸は暖かいものに満たされていた。  人殺しは、もう嫌だ。  復讐は、ここまでにしよう。  これからは、あの二人を守って生きていこう。  ・・・  その頃。  南条真吾らの住むマンションの一室に、奇妙な三人が訪れていた── 「ぼっちゃま、お久しゅうございます」  そう言って、南条真吾に深々と頭を下げたのは初老の男だ。髪の毛は真っ白であり、口ひげも白い。だが背筋はピンとしており、体に余分な脂肪が付いていないことは服の上からでも窺える。落ち着いたデザインのスーツとネクタイ姿は、ヨーロッパの紳士といった印象だ。  南条の横にいるキリーとは、真逆の人種に見える。 「山岡、よく来てくれたな。早速だが、ひとつ頼みたいことがある」 「はい、何なりと」    山岡と呼ばれた紳士は、即座に頷いた。その傍らに控えているのは、さらに奇妙な二人であった。  片方は、着物姿の中年男である。落ち着いた温厚そうな雰囲気であり、太く濃い眉毛とモミアゲが特徴的である。背はさほど高くないが、肩幅は広くがっちりした体格だ。一見すると、武術の達人といった雰囲気である。  もう片方は、年老いた着物姿の女だ。髪の毛は真っ白であり、頭の上で結んでいる。顔も皺が目立つ。かなりの高齢であることは明らかだ。もっとも、ギョロッとした目からは力が感じられるし、背筋もピンと伸びている。武器らしきものは持っていないが、背中に三味線を背負っていた。 「実はね、氷村組の事務所が襲われた。さらに、トニーとマイクが死体で発見されたんだ。これはもう、我々に戦争を仕掛けて来たと判断しても差し支えないだろう。その愚か者の始末を、君たちに頼みたいんだ」  言った後、南条はジェニーの顔を見る。 「ジェニー、奴は今、どこにいる?」  その問いに、ジェニーは憑かれたような顔つきで答えた。 「今は、南地区の外れにいる。たぶん、あの辺りのビジネスホテルにいると思う」 「そうか。奴の特徴は?」 「はっきりとはわからない。百八十センチを超す大柄な男なのは確か。髪は肩まで伸びていて、顔は濃い。体から、獣の匂いがしてる──」 「それだけ聞けば充分です」  ジェニーの言葉を遮り、山岡は自信たっぷりの表情で頷く。すると、キリーがヒュウと口笛を吹いた。 「たったそれだけでわかるのか? こっちは、相手の名前もわかってないのによう。大したもんだな」 「問題ありません。数十人のヤクザを死体に変える力、そして獣の匂い……そんな者を、我々が感知できぬはずがありません。すぐさま行って、仕留めてきましょう」 「待って」  言うと同時に、ジェニーは動いた。彼ら三人の前に立ち、不気味に光る目で山岡らを見回す。  ややあって、口を開いた。 「奴は、本物の怪物……あなたたちでは、勝てない」  その言葉に、着物姿の男が不快そうな表情を浮かべた。何か言いかけたが、山岡がにこやかな表情で彼を制する。 「我々を甘く見てもらっては困りますな。仮に本物の怪物が相手であったとしても、必ず仕留めてみせます」  言葉そのものは柔らかいが、その奥には強い意思が感じられた。ジェニーは何か言いかけたが、南条が割って入る。 「ジェニー、ひとまず山岡たちに任せてみよう」  ジェニーに優しい口調で言った後、山岡の方を向いた。  「山岡、万一の時は無理するな。ためらうことなく逃げてくれ。逃げることは恥ではない。むしろ、奴がどんな力を持っているのか……お前たちの目で見て、耳で聞いて、肌で感じたものを正確に教えて欲しい。頼んだぞ」 「わかりました」
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