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「ッ──……尚斗っ!!」
走り出したと同時に鋭い声が聞こえ、バタバタと三人分の足音が廊下に響く。捕まったらどんな目に遭わされるかなど想像に容易いが、それでも朝からはご勘弁願いたいものだ。振り返らず、教室を目指して薄暗い階段を登った。最悪なことに一年の教室は三階にある。心臓が破裂しそうなほどに激しい音を鳴らすがそれにも構わず走り続け、ようやく自分のクラスに辿り着いた。乱暴に引き戸を開け中に入ると、後ろ手に渾身の力で閉める。激しい音にすでに登校していたクラスメイトの視線が一同に集中したが、そんなことを気にする余裕など尚斗にはなかった。
彼らも尚斗を追って教室付近までやってきたのか、はめ込みの磨りガラス越しに廊下で忙しなく動く人影が揺れるのが見える。「どこいった」「後で呼び出そうぜ」と口々に言う声が聞こえたが、やがて辺りがシンと静まり返った。ようやく、緊張が解け、ほぅ、と小さな息を漏らす。
「……姫乃井、大丈夫?」
引き戸に凭れかかったままだった尚斗の傍に人影が覗く。心配そうにこちらを見下ろしていたのは黒髪の青年だった。
きっちりと着られた制服、赤いセルフレームの眼鏡の奥に覗く優しげな瞳、すっきりと切り整えられた短髪──《喜多里彩斗》──入学式で新入生代表の挨拶をそつなくやってのけた彼は、担任やクラスメイトからの推薦もあり早くもクラス委員長に就任していた。親しみを込めて尚斗はこう呼んでいる。
「委員長……悪ぃ、朝っぱらからうるさくしちまって」
「それはまぁ……いいんだけど。なんか上級生に追われてたっぽいから……平気?」
「あー……たいしたことじゃないから。ぼーっとしてたら昇降口でぶつかって……そんで〝どこ目つけてんだ!?〟って。よくあるだろ、そういうの」
「それはなんというか……災難だったね」
「おー、朝からツイてねぇ。おかげで気分が台無しだ」
「散々走らされたしな」──そんな風にこぼせば「朝から大変だったね」と労りの言葉が飛んできた。
でたらめを並べ立ててもまずは信用してくれる彼の人の良さには感謝しかない。彩斗は同じ学年に双子の弟がいる影響か元々の性格も相まってか、非常に面倒見が良い男であった。人付き合いが苦手を通り越し下手くそな尚斗でも、彩斗とは普通に話すことができる。友人と言うには少し遠いが、尚斗にとっては数少ない《クラスメイトとして会話の出来る人物》であった。
スクールバッグの中でスマートフォンが細かく振動する。彼らであることは明白──無視をきめ込んで眉間に皺を寄せると、彩斗が再び心配そうな顔をこちらに向けてきた。
「姫乃井?」
「ああいうのは、蛇よりしつこいって相場が決まってんだ。まぁ、どうにかなんだろ」
「先生に相談した方がいいんじゃ……」
「あの人達ももうじき受験だろ? 嫌でもちょっかいかけられなくなるんだから、放っておいても平気だって。委員長、心配しすぎ」
ようやく体勢を立て直して引き戸から背を離すと、彩斗の胸骨付近を制服の上から、とんっ、と手の甲で軽く叩く。微笑を零せば彩斗の表情が僅かに曇った。まだなにか言いたいことがある──そんな風にも伺える。
「……どうした?」
「僕じゃなくてもいいからなにかある前に相談しなよ? 曇狼とか……気の許せる人はいるだろうし」
「……あぁ、委員長も知ってんだ? 昨日のこと」
〝そういったこと〟には興味を示さないと思っていただけに、意外だと思う。いや──クラスの秩序を守るのも彩斗の役目と考えれば、起こったことをきちんと把握しているのは当たり前なのか。笑いを噛み殺して反応を伺うと、そんなこちらの様子を察したのか、情報を知りえた経緯を語りだす。
「用事があって職員室に行ってたからその場にいたわけじゃないけど、教室に戻ってきたらえらい騒ぎで。姫乃井って……なんていうか大胆だよね」
《良識の範囲で行動してくれればとやかく言うつもりはない》といわんばかりの台詞に、噛み殺していたはずの笑いがとうとう漏れてしまった。わかっていながら敢えてこう返してみる。
「褒めてる?」
「いや褒めてないから……」
彩斗はがっくりと肩を落としつつ、目の前で垂直状態に立てた掌を左右に振った。予想した通りの反応を返す彼に余計おかしさがこみ上げ、尚斗は笑い混じりに「悪ぃ」と短く相槌を打った。
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