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高校に入学したとき、私は一人だった。高望みし過ぎた受験で失敗して、私立に滑り込み。知ってる人はみんな別の学校に行ってしまって、そこは全くの新しい環境。もともと一人は嫌いじゃないし、別にそのままでもよかった。
でも、どういうわけかナツは――その頃はまだ菊池さんと呼んでいたけど、後ろから私にやたらと話しかけてきた。
「ねぇねぇ、鹿島さんって中学どこだった?」
「鹿島さん、髪きれいだねぇ。伸ばさないの?」
「ねー鹿島さん、シャーペン貸してー」
私より一回り小さい背丈、セミロングの茶髪、そして底抜けに明るい性格。そんな菊池さんは人付き合いが上手くて、入学後すぐに多くの友達を作っていた。
もっと楽しく話せる人が他にたくさんいるはずなのに、どうしてこの子はこんなに私と接したがるのか、私は正直よく分からなかった。
***
五月の半ばくらいだったと思う。休み時間に、菊池さんが後ろから私を小突いて、こう尋ねてきた。
「鹿島さんっていつも一人でいるけどさ、それって寂しくないの?」
――ああ、そういうことか。謎が解けた。
結局、この菊池夏美という子は、たまたま前の席に座っていた鹿島聡子という独りぼっちの人間を見て、かわいそうだと思ったんだ。一人は寂しいものだという自分の価値観が絶対だと信じて疑わず、救いの手を差し伸べたつもりになっているだけの偽善者。
それって、ものすごく、
「……は?」
ムカつく。
「余計なお節介なんですけど。そういうつもりで話しかけてきてるなら、もうやめてくれない?」
想像以上に低い声が出て、面喰らったような菊池さんの表情が愉快だった。チャイムが鳴り、私は前に向き直る。
次の休み時間、彼女は私に話しかけてくることはなかった。私も後ろを向くことはなかった。その日ずっと、そしてその次の日も、次の次の日も、次の次の次の日も。
***
そのまた次の日の昼休み、菊池さんの様子を気にしたらしい彼女の友達が、三人ほど連れ立って私に話しかけてきた。
「鹿島さん、だっけ。あのさ、夏美と喧嘩したのか何だか知らないけど、仲直りしなよ」
「そうだよ、夏美最近元気ないし」
「空気が重いよ」
その助言はもっともなのかもしれない。でも結局のところ、そこに含まれているのは彼女たちの事情だけ。私の都合は一切考慮されていない。それならいっそ、放っておいてくれればいいのに。
「……うるさいなぁ」
思ったことを素直に口にする。そもそも私は、自分を偽るのが苦手だ。
「あなたたち、普段私と話すような関係じゃないよね? なのにいきなり何? 余計なお節介なんですけど」
沈黙。四日前に見たのと同じような顔が三つ並ぶ。
「……行こ」
一人がそう言い、彼女たちは教室を出ていった。入れ替わりで教室に入ってきた菊池さんの姿が見えたが、見なかったことにして窓側に顔を向けた。
雲行きが怪しい。今日は運悪く日直だ。傘持ってきてないのに。帰るまでに降らないといいけど。
***
放課後、日直の仕事を終えて昇降口に向かうと、私の下駄箱の前に菊池さんの姿があった。気にしなくてもよかったものを、私はなぜかとっさに身を隠してしまった。
こっそり様子をうかがうと、菊池さんの他に、さっき私にお節介を焼いてくれた彼女の友達たちがいて、何やら言い争っていた。
「――っかなって。ね?」
「そう。夏美のためだよ、これは」
「え、何で?」
「何でって」
「何で調子乗ってる人の靴盗むの?」
「盗まないよ。隠すだけ」
「そうなの? 何で?」
「えぇっと、だからその……」
だいたい分かった。たった今来たふうを装って、彼女たちの前に出ていく。
「どいて、邪魔」
一瞬全員が黙る。誰かが舌打ちしたのが聞こえた。
「……行こ」
群れないと動けないのか、こいつらは。立ち去る彼女たちの背中から目を離し、菊池さんに向き直る。
「中学のときにもあったんだよね、こういうの。別に気にしてないから」
本当にバカバカしいと思う。自分より弱い誰かを叩いていないと気が休まらない、卑しくて浅はかな奴ら。そのターゲットとして、どうやら私はちょうどいいらしい。そういう行為をただ見ているだけの奴も、
「え、気にならないの?」
こうやって助けるフリをして良いカッコしたいだけの奴も、みんなちっぽけだ。
だから、言ってやる。
「ならないよ。むしろ、私を助けたつもりになってるあんたみたいな人のほうが気になる。気に障る」
「……はぇ?」
場の空気に全く合わない、素っ頓狂な声。
「何の話?」
「何のって……!」
ペースが乱される。「助けたつもりはなかった」みたいな言い訳を言わせるだけ言わせて、「そういうのがお節介なんだよ」と畳むつもりだったのに。
「じゃあ何? 何のつもりであいつらを止めたの?!」
言いながら、泣きそうになる。気にしないなんて言ったけど、本当は私だって傷ついてる。心ない嫌がらせを受けることに。他人の承認欲求を満たすための駒にされることに。
――上手くやっていけない、自分の不器用さに。
「止めた……?」
こいつは、まだシラを切るつもりだ。私がこんなにギリギリなのに、彼女はまだ頭にハテナマークを浮かべてぼんやりしている。絶対分からせてやる。いかにお前が卑しくて、浅はかで、ちっぽけか――。
「わたしは、人の靴隠したら何か楽しいのかなーって、気になっただけなんだけど」
……一周回って涙が引っ込んだ。
菊池さんは、そのぱっちりした二重の目をまっすぐこちらに向けている。そこには何の濁りもない、透明な瞳があった。直視できず、後ろを向いて下駄箱に手をつく。
息が苦しくなって胸に手を当てると、鼓動が早くなっているのが分かった。何だ、この気分は。
「わたしも隠してみたら分かるかなぁ。鹿島さん、靴隠してもいい?」
「いや、やめてよ……」
自分から出てきたその気の抜けた声がおかしくて、息だけで笑う。
何だよ、靴を隠して何が楽しいのか気になったって。そんなの……言われてみれば、何が楽しいんだろう。気にしたこともなかったし、それ自体は知りたくもないけれど、菊池さんのその視点は、さっきのクズどものそれとは明らかに違った。
それなのに私は、菊池さんもどうせクズの一人なのだと勝手に決めつけて、同じように排除しようとしていた。何だよ、本当に何なんだよ。
――卑しくて浅はかでちっぽけなのは、私のほうじゃないか。
そのとき、外で轟音がして、あちこちで悲鳴が上がった。私も思わず振り向く。
「わー、降ってきたぁ」
雷に驚いた様子もなく、菊池さんは外を見て呟いている。
「あ、傘ない……」
そうだった。雨が降りそうだから早く帰ろうと思っていたことすら、私は忘れていた。
「そーなの? じゃあさ」
そこまで言うと、彼女はテトテトっと傘立てに向かい、またテトテトっと戻ってきて、
「一緒に帰ろ!」
持ってきた傘は、その小さな身体にはとても似つかわしくない大きさだった。
***
学校ではよく一方的に話しかけられていたが、一緒に帰るのは初めてだった。
「雨、好き?」
左を歩く菊池さんが尋ねてくる。
「嫌い」
濡れるのが嫌だ。靴の中とか。
「お、わたしも嫌い」
「嫌いなんだ」
意外な共通点。でも理由は私とは違った。
「傘、邪魔なんだもん」
「菊池さんの傘、大きいよね」
「うん。だって大きいほうが良いじゃん」
「でも邪魔なんでしょ?」
「まーね。でもでもー」
一呼吸置いて、私を見てにへらと笑う菊池さん。もともと可愛い子だとは思っていたが、笑うといっそう可愛い。
「今日は役に立ったから許すっ!」
女子高生二人を文字通り傘下に収めた菊池さんの傘は、大粒の雨を受けて不規則なリズムを刻んでいた。
菊池さんに持たせると私の頭が傘にこすれるので私が持っているのだが、この相合傘状態を私が作っているという事実が気まずくないと言えば嘘になる。でも、この豪雨の中をひとり傘なしで歩くほうが絶対に辛いし、それに……何だろう、気まずいけれど、嫌ではない。
「そーいやさーぁ」
菊池さんが顔を覗き込んでくるので、何となく目を逸らす。
「『そういうつもり』って、どういうつもり?」
「何の話?」
「この間言ってたじゃん」
四日前の自分の台詞が思い出される。
『余計なお節介なんですけど。そういうつもりで話しかけてきてるなら、もうやめてくれない?』
あのとき彼女がみせた困惑した表情は、まさか、言ってる意味が分からなかっただけ?
「本当は分かってるんでしょ?」
無意識に語気が強まる。この期に及んで、私という奴は。
「ううん、分かんない。だから、とりあえず話しかけないようにして、ずっと考えてた。でも分かんない」
……つくづく調子が狂わされる。こいつは、ホント、何なんだ。
「わたし、オオカミになりたいんだ」
「……はぁ」
急に話が変わった。オオカミ?
「オオカミって、一人でごはん食べて、一人で寝て、一人で生きてるんでしょ? 何かカッコよくない?」
「……私にはちょっと理解できないけど」
「そうなの? 鹿島さんオオカミみたいじゃん!」
何だか言葉に熱がこもっていた。
「そうかな」
「そうだよ、だからわたしも鹿島さんみたいになりたいんだぁ」
あ、話がつながってきた。
「もしかして、それで私にやたら話しかけてくるの?」
「うん。いきなり一人は怖いけど、鹿島さんみたいな人と二人なら難しくないかなぁって思って」
でも何か勝手に友達増えちゃうんだよねぇ、と笑いながら言うその声は、嫌味ではなく本当に悩んでいるようだった。
思わず溜め息が漏れる。このままじゃ私がバカみたいだから、ひとつ彼女に教えてあげることにした。
「……ねぇ、菊池さん」
「うん」
「オオカミって、群れで生活するんだよ」
「えっ、そうなの?!」
たぶん菊池さんが思い浮かべていたのは「一匹狼」という単語だけど、それは群れから離れて単独で生きるしかなくなってしまったオオカミを指すもので、別にオオカミ自体は普段から単独行動しているわけではない。私を指す言葉としてはぴったりなのかもしれないけど。
「知らなかったぁ……」
本気で落ち込んでいる様子の菊池さんを見ながら、いつの間にかフフッと笑っている自分がいた。
「まーでもー、それならやっぱりオオカミがいいかな」
傘の持ち手をつかむ私の左手をその小さな右手で包みながら、菊池さんは言う。
「明日も一緒に帰ろうね」
私は返す。
「明日は土曜日だよ」
雨はもうそろそろ止みそうだった。
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