<プロローグ>

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<プロローグ>

 絶え間のない人通り。眠ることのない繁華街へと、男は入っていこうとしていた。彼の足取りははっきりとしていたが、彼自身は、何故自分がここを歩いているのかよくわからなかった。気がついたら、ここを歩いていたというべきであろうか。  彼、中野清は何か漠然と、行くべきところがあるように感じていた。確か昨日も同じようにここへ来た気がする。このところ数日間こんな感じだ。会社を出て、気がつくとここを歩いている。しかし、ここへ来るまでの記憶も、昨日ここへ来てどうしたかという記憶も、なぜかまったく思い出すことができなかった。昨日も気がついたら終電に乗って家に向かっていたのだ。  ここ数日、どうも体の調子が悪い。どこが、と言われると困るのだが、どうも元気が出ない。会社でも、同僚たちから「顔色が悪い」と言われた。洗面所で鏡を見ればなるほど、目には隈ができていて自分で見ても顔が悪い。おそらく寝不足なのだろう、早く帰って休もうと会社を出たはずなのだが、気がつけば、ここを歩いていた。  繁華街の一角、有名な待ち合わせ場所で、彼は立ち止まった。誰かと待ち合わせをしているように思う。誰、と憶えているわけではないのだが、不思議とそんな気がした。彼は、そんな自分をおかしいと思った。もしかしたら悪い病気かも知れない。これはもしかしたらこんなところでうろうろしている場合ではなくて、病院に行った方がいいのかも知れない、そう思ったところで、彼の思考は中断した。  雑踏の中を、「彼女」はまっすぐ彼の方に向かって来た。彼の目は、そのノースリーとパンツという姿の「彼女」から目を離すことができなくなっていた。彼は思いだした。彼はまさしく「彼女」と待ち合わせをしていたのだ。  やがて、「彼女」は清の前に到着した。そして、人目も憚らずそのまま首に両腕を回すと、奪うように自分の唇を清の唇に重ねた。しかし、やはりと言うべきか、そんな彼女の行動を奇異の目で見る者は周囲にはいなかった。ここは繁華街。いちいちそんな他人のことを気にしている者は少ない。「彼女」はゆっくりと唇を離すと、微笑んだまま清に向かって言った。 「おまちどおさま。行きましょう」  頷く清。彼にはそれを拒む理由など無いように思えた。記憶が蘇る。「彼女」が与えてくれる、甘美な、至高の快楽としか言いようのない時間…拒むなどとんでもない。「彼女」にその時間を与えて貰うには、「彼女」の言うことに逆らってはいけないのだ。  呆けたような顔のまま、清は「彼女」に連れられ雑踏の中に消えた。
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