<第一章>

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<第一章>

「まったく、参ったな」  開店直前の洋風居酒屋、プラランの店内。井川誠は、わからないという風に首を振った。 「とりあえず、今から何人か電話するけれどたぶん駄目だろう。今日はきついががんばってくれ」  店員たちに言い渡す井川。その顔が、呆れたような表情を浮かべている。それもそのはずだった。世間は春、新入生や新入社員の季節だった。そして今日は金曜日。会社帰りや学生のコンパなどで店は戦場のように忙しくなる。だというのに、アルバイトの一人、三上正一が無断欠勤しているのだ。確かに昨日顔色が悪かった。早く帰って休めとも言った。しかし、今日は何の連絡も無しに休んでしまっている。電話もメッセンジャーも繋がらない。電話してからもう一時間は経つので、向かっているとすれば何か事故にでも遭わない限り現れないことはありえない。  井川は、この店の店長だった。彼も元々アルバイトだったが、近隣に三店舗を経営するオーナーが、彼を正社員に迎え入れこの店を任せたのだ。その三店舗の中で、井川の店が一番売り上げが高い。場所柄を考えても、オーナーが「俺の目に間違いはなかった」と言うのはあながち誇張ではないと井川は自負している。  それはともかく、もちろん三上が事故か何か緊急事態にあった事は考えられた。しかし、井川の店では、これで二人目だ。ほんの一週間前にも、大沢弘というアルバイトが、突如無断欠勤しそのまま連絡も付かなくなってしまっている。彼の場合、それから給料すら取りに来ない。他にも無断欠勤してそのまま辞めた者はいたが、井川にしてみれば「おそらく長続きしないだろう」と思っていた者ばかりだったのであまり気にしなかったし、そういう連中も給料だけは必ず取りに来る。しかし三上と大沢の場合はどちらも長期採用で、今まで二人とも一年以上も真面目に働いていた。フリーターにしておくのは勿体ないぐらいだと井川自身も思っていただけに、彼は裏切られたような気分だった。 「なあ、どう思う?」井川は、女子アルバイトの中でも長い中川紀子を呼び止めた。 「そうですね…最近の男の子、根性ないから」微笑みながら言う紀子。茶色い髪を、後ろで束ねる彼女は、三上たちと並んで井川の貴重な戦力だ。しかし、紀子も今回の三上の欠勤については戸惑っているようだった。 「でも、もし大沢さんに続いて三上さんとなると…」  首を傾げる紀子。 「どこかの店に引き抜かれたんじゃないですか?二人ともすごく真面目で熱心だったし」 「引き抜き?」  紀子が頷く。ああなるほど、と井川は思った。そんなことは思いもしなかったが言われてみれば、実際に彼も今のオーナーではなく、他の店に好待遇で誘われたならば行ったかもしれないと思う。大沢にも三上にも、おそらく井川がいなくても店を回すことができるぐらいの能力はあるだろう。しかし、井川はそれでも何か引っかかっていた。 「でも、給料も貰わずに」 「でもそれは待遇じゃないですか。その分も補償してくれるんだったら私も行っちゃうかも」悪戯っぽい微笑みを浮かべる紀子。前向きで元気印な彼女の存在は、この店にとって不可欠なのだと井川は改めて確認する。スタッフ全体の雰囲気を盛り上げる彼女のような存在は貴重だ。 「おいおい、まさか中川さんも声かけられたなんて言うんじゃないだろうね?」そんなことはないとわかっていつつ、井川は確認するように言う。井川も井川で、店の雰囲気を良くしようと日々考えてはいる。 「さあどうでしょう?ナンパならしょっちゅうされますけど」調子に乗って答える紀子。井川は目を笑わせたまま彼女を睨む。 「でもあたしは店長一筋だからよそへは行きませんよ。それに、三上さんだってまだ辞めたわけじゃないですし。ひょっこり来るかもしれませんよ」悪戯顔の仕上げにそう言う紀子。 「はいはい。ありがと」呆れた顔で、井川は紀子を追い払うように手を振った。調子はいいが、彼女は頼りになる。大沢と三上はそれ以上に頼りになった。改めて、二人の抜けた穴の大きさを認識させられる。  時計を見る井川。開店時間が近付いている。紀子の言うとおり、三上はひょっこり現れるかもしれない。が、井川は三上がもう目の前に現れないような予感がしていた。そして、今日はもう閉店までこんな事を考えるゆとりはないだろうと思った。
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