33.歌人

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33.歌人

 脇腹の傷は、劇的といっていいほど順調に回復していた。  あとで聞いた話では、エヴァは、この傷を、次の満月までに治すのは難しいと思っていたらしい。それがコルセットが外れてから3日目にはジョギングできるようになり、さらには剣を手にした実戦訓練さえ行えるまでになるとは、治療しているエヴァさえびっくりするほどの早さだった。  勇者としての力もあるかもしれないが、初めのうちは刻々と悪化していたことを思うと、やはりあの薬草の力が大きいのだろう。  訓練はまず剣術の基礎から始まった。  戦いでは剣に導かれて体が動く。ただ、剣を振っているのが俺である以上は、基本的な構えや剣の振り方は身につけておいた方がいいようだ。剣に導かれて振りだそうとしても、構えができてなければ反応が遅れるし、相手の反撃に対しても隙ができやすくなるからだ。  実際、俺の動きには脇の甘いところがあるらしい。それが、模擬戦や妖魔との対戦で、脇腹をやられたことに繋がっているというのがゼーベックの分析だった。  そういった剣術の基礎から始まって、起伏のある場所での逃げ方や逆に相手を追い詰める方法に至るまで、訓練を通じて、俺は実戦の基礎の基礎を詰め込まれていった。  そんなある日のこと。  あの薬草を差し入れてくれた歌人がこの地に戻ってきたと、エリスに教えられた。  さっそく彼女を通じてお礼を言いたいと伝えると、相手が屋敷まで来てくれることになった。  当日、訓練が終わった夕方に屋敷の居間を借り、俺と七瀬とエリス、そしてぜひ会いたいと言っていたエヴァの4人が歌人を迎えた。 「お会いできて光栄です」  ガブリエルと名乗ったその歌人は、涼しげな笑みを浮かべて頭を垂れた。  部屋に入って来た彼を見たとき、俺はまずその容姿に驚いた。  歌いながら地方を流離(さすら)う人というイメージや、エリスが心酔する様子から、俺は勝手にちょい悪オヤジのような渋い雰囲気の男性を想像していた。しかし、実際に目にした彼は、彫刻のように整った顔立ちの若い男性だった。長身の(たくま)しい体つきにもかかわらずどこか中性的で、まるで宝塚の男役を思わせる雰囲気がある。  彼の挨拶を受けて、こちらも初対面の三人について簡単な紹介をした。  俺は、自分のことを、遠い場所から妖魔退治のために呼び寄せられた者だと説明をした。自分で言うのは抵抗があったが、ここでは勇者と呼ばれているとも付け加えた。そして七瀬は、その俺とともに呼ばれた人で、俺に学問を教えてくれる先生なのだと伝えた。そしてエヴァは俺の主治医だと。  紹介が終わると、俺は歌人に対し深く頭を下げた。 「先日は薬草を差し入れて下さってありがとうございます。すごい力をもった薬草なんですね。本当に助かりました」  すると、歌人は静かに首を振った。 「たまたま手元にあったものを差し入れただけなのですが、お役に立てたのなら嬉しく思います。私が持っていたところで、何の役にもたたないものですから」 「そんなことないでしょ。とても珍しい薬草だそうだし、欲しがる人も多いんじゃないですか?高く売ることもできるだろうし。それを差し入れてくれたことには感謝しかありません」 「ただ珍しいからと欲しがる人には渡すつもりはありませんでした。使い道の限られた薬草ですから、必要な人の手に届くならそれでいいのです」  彫刻のような顔という表現がぴったりな人だと思った。  とても美しく整っているのだけど、どこか表情に乏しい感じがする。 「使い道が限られたということは、あの薬草は妖魔の毒にしか効かないということよね?」  隣のエヴァが口を挟んだ。 「そう聞いています」 「誰から?」 「薬草を戴いた方からです」 「そう」と彼女はうなずいた。「いろいろ調べたんだけど、それは正しいみたい。不思議な薬草なのよね。で、いつごろ貰ったの?」 「半年ほど前でしょうか」 「貰ったのはどこで?どんな人から?」  まるで尋問のような、矢継ぎ早の質問は少し失礼にも思った。にもかかわらず歌人は穏やかな表情を少しも変えずに、西にある大きな都市の名を上げた。その街角で歌っていた時、彼の歌を気に入った老人が薬草を置いていったのだそうだ。 「それから半年間、ずっと持って旅を続けてきたんだ。本物かどうかもわからない薬草なのに、邪魔だったでしょう?」 「エヴァ」  俺は隣のエヴァを肘で突っついた。  チラリと見た横顔は、真剣な表情をしている。  ふざけているわけではなさそうだけど、さすがにこれはやり過ぎだ。  俺の気持ちが伝わったらしく、 「ごめんなさい。あまりに不思議な話だから、つい」  声を落としてエヴァは言った。 「いいえ、気にしないでください」歌人は薄く笑った。「たしかに妖しげな力を感じる薬草です。それもあって、旅には邪魔でも捨てられなかったのです」  むしろ、ここで使ってもらうことができて助かったということだろうか。  だとしても差し入れてもらえて助かったのは事実だ。感謝の気持ちは変わらない。  話がそこでとぎれると、 「これまでは、どちらを巡っていらっしゃったんですか?」  今度は七瀬が口を開いた。 「西の街をいろいろと」 「たとえば?」  七瀬の問いに、旅人はいくつかの都市の名前を挙げた。俺は知らない名前ばかりだったけど、いくつかは彼女も知っているようだった。さすがに勉強家だけあって、この世界の地理についてもいろいろ頭に入っているらしい。  七瀬が問いかける形で、それからしばらくの間、それらの都市の話で時が過ぎていった。  そして夕暮れが近づいた頃、 「そろそろ失礼いたします」歌人は言った。「ただ、その前に一曲、歌をさし上げたいのですがいかがでしょうか?」  すると、俺が答える間もなく、 「ぜひお聞き下さい」とエリスが声をあげた。「とっても素敵なんです。ケイト様にもきっと気にいって戴けると思います」  そのあまりに切実な声に、つい笑ってしまった。 「ぜひお願いします。聞きたいと思ってたんです。こんなに彼女を夢中にさせる、あなたの歌を」  それを聞いたエリスが赤い顔をしている。 「では」とうなずくと歌人は席を立ち、脇の袋の中から琵琶に似た形の楽器を取り出した。  俺たちもまた席を立ち、窓辺の歌人を取り囲む形に椅子の位置を変えた。  彼は軽く弦の調子を整えたあと、 「聞いて下さい」  歌い始めた。  恋の歌だった。  儚げなメロディに乗せたバラードで、曲も歌詞も素朴なものだったが、妙に心に響いてくる。  エリスは祈るように胸の前で手を組み、瞳を潤ませている。  視線を七瀬に移すと、彼女もまたうっとりと聴き入っていた。  夕闇の忍び寄る窓辺で、旋律に耳を傾けるその横顔に俺は目を奪われた。  薄く開いた瞳と長い睫毛、  夕日が影をつくる滑らかな頬、  ノーメイクのため幼く見える横顔は少しも年上には見えない。それでいて理知的な眉と意志の強そうな口元が、凛とした美しさを(かも)し出している。  ひととき俺は、そんな七瀬に見惚れていた。  すると、 「いかがです?」  突然声を掛けられ、現実へと引き戻された。  その瞬間だった。  不意打ちのように、心の内に(たと)えようのない違和感が拡がるのを感じた。  俺は、この声を聞いたことがある。  いつかは思い出せない。場所も分からない。  でも、確かに、聞いた記憶がある。  歌はすでに終わっていた。  歌人に視線を戻すと、彼は俺を見つめていた。  目と目が合う。  表情に乏しい彫刻のような顔立ち。  がしかし、その目には強い意志が感じられた。  俺をのぞき込み、その奥にあるものを探り取ろうとするような視線だ。 「さきほど一曲と申しましたが、ぜひもう一曲歌わせてください」  いきなり彼は言った。 「巡り会えた美しき女神のために」  そう告げると、彼はふたたび弦をつま弾き始めた。
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