蛍雪の窓 3 

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蛍雪の窓 3 

 県立高校、入試当日。  柄にもなく、オレは緊張していた。  朝起きてすぐに、そのことに気付いた。  気負い過ぎているせいだ。  何が何でも流さんの母校に受かりたい、通いたい。  流さんが見た光景を、この目で見てみたい。  そんな夢を抱いてしまったから。  制服に着替え階段を下りていくと、流さんが朝食を作ってくれていたので、味噌汁のいい匂いがした。  いつもと変わらない寺の庫裡、朝の光景に思わず頬が緩んだ。 「おはようございます」 「薙、起きたのか」  洋さんも駆けつけてくれて、励ましてくれた。  彼に英語を習いだしてから、成績がグンと伸びたんだ。 『英語は薙くんの得点源だよ』  その言葉は自信と励みになった。  そこに現れた、父さんの父さんらしい姿に、じわっとしてしまった。  まさか父さんが袈裟を脱いで私服に着替え、駅まで送ると言ってくれるなんて。  母と暮らしていた時は、父さんの気配は皆無だった。  母の仕事が忙しくなるにつれて、母すらも学校行事に来なくなった。  授業参観や運動会も、いつも一人だった。  だから、今日の父さんの気持ちと行動は、素直に嬉しかった。  駅までの道すがら、車の窓から駅のホームに親御さんと並んで立っている受験生を見かけて、純粋にいいなと思った。  今までだったら、いい歳して親の付き添いなんて過保護だなとしか思わなかったのに、変だな。  父さんは、オレをよく見てくれるようになった。  オレの心の声を拾ってくれる。  その度に父さんに無邪気に抱きついて、ありがとうと言いたくなる。  だが、そんなこと照れ臭くて出来ないよ。  父さんは車を駐車場に停めて、最寄り駅まで送ってくれた。  すぐ傍にいてくれる安心感と試験への緊張が入り混ざり、膝の上の手が微かに震えてしまった。  受験会場の校門が見えて来た。  ここからは俺の力で駆け抜けないといけない!  そのために、父さんの温もりを少しだけ分けて欲しい。  そんな気持ちが込み上げて、別れ際に……父さんの手に触れてみた。  手を繋ぐより……もっと淡い、手の甲に触れるだけの仕草。  優しくて綺麗で気高い父さんは、オレの父さんだ。  ベストを尽くそう。  結果はどうであれ、今の実力を発揮しよう。  心がグングン軽くなっていた。  集中しよう。  鉛筆を持つ手は、もう震えていなかった。  試験が始まる。  オレの勝負所だ。    昼休み、知っている人が誰もいない教室で、弁当をそろりと出した。 「あれ?」  卵焼きがいつもと違う。  焦げていて、ぼろっと崩れている。  めずらしいな、流さんが焦がすなんて。  口に含んで、あっと思った。  これ、父さんが作ってくれたのか。  料理に関しては洋さん並みに不器用な父さんの、精一杯の真心を受け取った。  親の愛情。  月影寺にやってくるまで、もう何も期待しない薄れたものだったのに、今の俺はこんなにも喜んでいる。  もっと素直になろう。    帰ったら、父さんにお礼を言おう。  そんな思いで、午後も集中して試験を受けた。 **** 「流は、どうしていつも山門で、僕の帰りを待っているんだ?」 「それは……翠と離れていると不安になるからだ」 「……それは、僕も同じだ」  そのまま二人で並んで、母屋に戻った。  途中、洋くんとすれ違ったが、彼は僕らが手を繋いでいることには気にも留めず、「お帰りなさい。離れで仕事をしてきますね」と優しい笑顔を振りまいて通り過ぎていった。 「洋くんの纏う空気も柔らかくなったな」 「そうだね。羽が生えているように見えるよ」 「翠、袈裟に着替えるか」 「……今日は袈裟を着たくない……って、それは我が儘だよね」 「いや。そう言うと思った。翠にも休みが必要だ。今日は俺が袈裟を着る」 「あ……じゃあ僕が着せてあげるよ」  そう言うと、流がなんとも言えない表情を浮かべた。 「そう来るのか」 「ふふっ、流のお着替えなら慣れているよ。小さい頃、流は何でも僕にやらせていたじゃないか。制服のボタンもなかなか出来なくて」 「おい、い、いつの話だよ!」 「えっと……幼稚園かな」  正確には中学の詰め襟のホックも手伝ったことがあるけどね。   「お、思い出さなくていい。今の俺の手捌きを見よ」 「はいはい」  他愛もない会話で、僕の緊張を解してくれる流に感謝した。      
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