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『月のため息』(安志&涼編)1
「頑張れー!」
赤い旗と人混みと歓声に揉まれながら、僕は安志さんと駅伝の観戦をしていた。
「涼、ちゃんとフード被ってろ」
「あっ、ごめん」
僕の隣で、母校の応援をしていた安志さんと目が合うと、心配そうにダッフルコートの、取れかかったフードを直された。
あの時計の広告に出てから、僕の顔が街の至る所に貼り出されたので、サングラスやフードで顔を隠さないと、外を歩くのが困難になっていた。
そんなわけでサングラスをし、念のため安志さんとも距離を取って電車に乗った。
これは、ちょっとした探偵気分だ。LINEでこっそり会話をしてみると、大船駅で途中下車し、東海道線に乗り換えて藤沢に行くという指示を受けた。
「こっちだ」
グイッと腕を引っ張られた。
どうやら皆何か目的があるようで、僕のことなど気にする暇もないようだ。よかった。この様子ならば、僕も安志さんと歩幅を揃えられる。
「こんな駅で降りて、どこに行くの?」
「駅伝の応援に行こう」
「?」
「そっか、涼は観たことないのか」
「うん、でも中高と陸上部だったから興味あるよ」
「おお。俺の母校の大学も出ているし、久しぶりに応援したくなってさ。まぁ、この人混みなら目立たないだろう。みんな観戦に夢中だしな」
安志さんも何かスポーツをやっていたのかな。そういえば僕は安志さんの学生時代の話をちゃんと聞いたことがない。なんとなく聞きづらくて。だって……洋兄さんに片思いしていた時代の話だから。
そんなわけで、僕は今、安志さんと並んで沿道で駅伝の応援をしている。サングラスの代わりにフードを被って。
颯爽と走り抜けていく選手を見ていると、身体がむずむずしてくる。
アメリカで自由に走り回っていた頃が懐かしいな。それからセントラルパークの近くでスリにあった安志さんを見かけて、犯人を捕まえようと全速力で走った日のことを思い出す。
あの日がなかったら、安志さんとは空港ですれ違っただけで終わっていたかもしれない。人の縁って、本当に不思議だ。
「涼も走りたくなったのか」
「安志さんも?」
「あぁ、アメリカで一緒に走ったよな。スリを追って」
「今、同じこと考えていたよ」
すると安志さんが、改まった様子になった。
「涼はさ、日本で窮屈な思いしていないか」
「……確かに街を自由に歩くのが難しくなってきているけれども、僕は僕のままだよ。大丈夫だよ」
「そうか。それを聞くとホッとするな。なんか涼がますます遠い芸能人になってしまった気がしてさ。悪かったな。こんな人混みで見つかったら大変なのに連れて来て」
「何言ってるの? 僕はこういう普通のことがしたかったから、凄く嬉しいよ」
「涼……俺も高校の途中まで夢中で野球をやったから、選手の真剣な眼差しを間近で見ると、なんかこう、奮い立つものがあってな。俺も頑張ろう! 今年も頑張ろうってさ」
「野球やっていたんだ。それ、観てみたかったな。安志さんのユニホーム姿、素敵だったろうな」
高校時代の安志さんを、今度は知りたくなってきた。
「見せれたもんじゃないよ。髪も短かったしさ」
「ますます見たい!」
「今度な~ あっそうだ! また一緒に実家に行こうな」
「えっ、いいの?」
「当たり前だよ。少しずつ慣らしていかないとな。それに母さんもまた連れて来いって、うるさいからさ」
思いがけず知る好きな人の過去と、今の僕への想い。
一気に、心がポカポカと上昇してくるよ!
「ありがとう。安志さんはいつも僕の心を明るく暖かく照らしてくれるよ」
素直な言葉を口にすると、僕のことを見つめる安志さんも幸せそうな笑顔を浮かべてくれた。
沿道の歓声が遠くに聴こえる。
冬の陽射しが届く日向が心地良くて、僕の口元も自然と綻ぶよ。
「涼~ 参ったな。外で、そんな……天使みたいに可愛い顔すんな」
「え?」
「今すぐ食べたくなるだろっ、本当に俺は涼が好きで堪らないんだと、実感するよ」
僕のほうこそ、ここで今すぐ抱きついてキス出来ないのがもどかしいよ。
「さっそろそろ月影寺に行くぞ」
「そうだね!」
僕たちを結び付けてくれた洋兄さんに、無性に会いたくなった。
それから今の安志さんを作ってくれたのは、洋兄さんのお陰でもあるんだなと思った。
安志さんの長い片思いは……けっして無駄じゃなかったよ。
だって僕はそんな安志さんも含めて、好きなのだから。
それに気が付いたのは、この寄り道のお陰だ。
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