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追憶の由比ヶ浜 36
「おばあさま、教えて下さい。この人達と、俺の母さんは接点があったのですか」
「えぇ、幼い頃からよく遊んでもらったわ。活発な性格の朝は海里先生が庭遊びして下さて、大人しい夕は柊一さんのお膝で本を読んでもらったりしていたわ。彼らはとても子煩悩だったの」
「……母さんは、やっぱり大人しかったのですね」
「そうよ。涼の母には会ったことがあるのよね?」
「はい、ニューヨークで……あまりに顔が似ていて、でもあまりに性格が違っていたので驚きました」
「そうよね」
おばあさまが二人がけのソファに腰掛けたので、俺も隣に座った。
「最後にこの別荘に来たのは、夕が高校1年生の時だったわ。あの頃は毎日が楽しかったわ……」
おばあさまの声のトーンが沈んでいく。
「あのね……洋……その、崔加さんは、今、どうしているの?」
突然鈍器で殴られたような心地になった。
耐えねば……堪えろ、洋。
「な、何故、急に?」
「夕の手紙に、洋を託すために彼と再婚したと書いてあったわ。あなた……本当にあの人と暮らしていたの?」
「……はい。大学卒業まで一緒に」
「……そうなのね。洋……? 顔色が悪いわ。真っ青よ」
「あ……っ」
おばあ様は何も知らない。絶対に悟られてはいけない。
俺が義父に何をされたかは、永遠に封印する!
「……大丈夫です。義父とは、その後……いろいろあって……縁を切りました」
それだけ告げるので、もう精一杯だった。
「そうだったのね。……丈さんとの関係をやはり理解してもらえなかった?」
「……まぁ、そんな所です」
大きく捉えればそうなる。平たく言えばそうなる。
丈との肉体関係が先だった。そしてそれが……あの日、義父が逆上した引き金になってしまった。キュッと奥歯を噛みしめた。
「嘘よ! 洋、あなた……とても嫌なことがあったのね。私に話せないようなことが」
「そっ、そんなことありません。俺は大丈夫です」
「嘘よ! だって……あの日の夕と同じ顔をしているわ」
「どういう意味です?」
おばあさまが俺の手を握って下さる。
冷え切った手に温もりを感じ、いくらか安堵した。
「高校時代……ある日、夕が蒼白な顔で帰って来たの。頬を誰かに叩かれたのか唇の端が切れいていて酷く心配したのよ。でもどんなに聞いても夕は悲しげに首を横に振って……今のあなたのように苦しい表情を浮かべていた。今度は見過ごさないわ。小さなサインを。小さなSOSを……っ」
おばあさまが、涙を流して……俺をふわりと抱きしめてくれた。
「洋も夕も……本当にごめんなさい。あなたたちが苦しんだのは、家を建て直すために、崔加さんの家の財力に固執した私と主人のせいよ。どうかしていた……もうどうにもならないと分かっていても、謝りたいわ」
何てことだ! 由比ヶ浜で……母の優しい思い出を辿るはずが、もっと前の……運命の分かれ道にまで戻ってしまったのか。
「夕は嫌がっていたのに……無理矢理、彼と結婚させようとして……。洋、あなたはもしかして……あの時の因縁を投げつけられてしまったのでは?」
「お、おばあさま、もう……どうか、それ以上は話さないで下さい」
(ママ、もうやめて……もういいの。もう戻れないことよ)
天から……母の声が重なっていく。
「おばあさまは、今の俺を見て下さい!」
(ママ、ママ、どうか今の洋を見てあげて! 魅力的な子でしょう? 可愛いでしょう? 辛い過去を乗り越えて、ママの傍にやってきたのよ、今の洋をありのまま受け入れてっ! もう辛いだけの過去はいらない! この子の……今と未来を見てあげて)
(auさんより)
その時、部屋の中央に置かれていた重厚な時計が、突然動き出した。
ボーン、ボーン。
追憶の道を間違えるなと教えてくれているように、厳かに鳴り響いた。
「あ……この時計はこの家が建った時からあるものよ。私たちの寝室にもこの音が聞こえてきたわ。海里先生と柊一さんも大事にしてくれたのね。夕……そうね。もう戻れない。戻らないで今、この瞬間に感謝するわ」
「そうして下さい。俺はもう大丈夫ですから」
「あぁ、洋、ようちゃん……私の孫……大好きよ、可愛い子……」
おばあさまが幼い子供のように、俺を抱きしめてくれる。
(ママ、ママ……ママ! 私も大好きよ)
俺の中の母も、喜んでいる。
「おばあさまが大好きです」
そして俺も心から喜んでいる。
「間に合ってよかった……洋、あなたに会えて、本当によかった」
おばあさまの言葉が、身体に染み入ってくる。
過去は消せない。
しかしもう俺は怯えない。
あの日のどん底から這い上がり、ひたむきに生きてきた。
俺の心は……決して……汚れていない。
だからおばあさまからの愛を、すべて享受する!
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