翠雨の後 1

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翠雨の後 1

 寺で誰よりも早く目覚めるのは、この俺だ。  月影寺を守る獅子として翠を生涯守り抜く想いは、一向に色褪せない。むしろ翠と繋がる度に増していく。  昨夜は、新年度を迎えるにあたり心を整えたいという翠の希望で、それぞれの部屋で眠りについた。  久しぶりの独り寝は寂しく、いつもよりずっと早く目覚めてしまった。そこで翠の部屋に忍び込み、愛しい寝顔を心ゆくまで見つめることにした。  今日から四月だ。    翠の部屋の壁にかかるカレンダーと文机の上の卓上カレンダーを潔く捲った。 「ふぅん、四月は満開の桜は吉野山の千本桜か。まるでこの世の極楽だな。だが俺の極楽はここにある」  なぁ翠、ついに4月になったぞ!  俺たちにとって特別な夜明けだ。  薙が今日から『張矢 薙』と名乗れるのだから。  翠によく似た顔立ちで、性格は俺に似た頼もしい薙は、まっすぐに俺と翠の血を受け継いでいる。『森』から『張矢』と苗字が変わることにより、名実ともに俺と翠の息子になるようだ。  数ヶ月前、宗吾の兄が離婚調停に精通した凄腕の弁護士だと知り、すぐに紹介してもらった。滝沢憲吾弁護士はすぐに手腕を発揮してくれ、無事に『子の氏の変更許可』が認められた。高校に上がるのと同時に、薙の苗字を『張矢』の姓に変えることが出来て良かった。   「翠、良かったな」  翠はまだ夢の中。目元の色っぽい黒子(ほくろ)にそっと口づけすると、ムラッと欲情してしまった。  まずいな。よしっ、ひとっ走りしてくるか。  俺はこんな時は昔から外に飛び出して、身体を動かすことで発散させてきた。しかし三十も後半なのに未だに衰えない性欲に苦笑する。きっと生涯翠に欲情するように身体が仕込まれているのだろう。  それでいい、それがいい!  ザザッと竹藪に飛び込み、そこから裏山を縦横無尽に走り抜ける。  竹林の葉のざわめきを割って風を誘い、翠色の庭を駆け巡る。  一陣の風が吹き抜けると、ブワッと視界が桜色になった。    今年の桜は早かった。  もう葉桜になってしまったが、竹林に花びらが紛れ、ひらひらと舞い降りてくる様子は幻想的だ。  寺の最奥にある墓石にも、花びらがひらひらと降り積もっていた。  その幻想的な光景の中に、静かに佇む人がいた。 「ん? なんだ……洋か、驚いたな、こんなに朝早くどうした?」 「……流さんこそ」  丈の運命の(つがい)とも言える、洋。  相変わらずその類い希な美貌は変わらない。憂いを帯びた目元には幸せと哀しみが同居しており、月光のような静かな気を放ちながら、強くも儚くもある独特の雰囲気を纏っている。 「俺はまぁ……日課だ」 「あの……今日は母の命日なんです。あの日もこんな風に桜の花びらが名残惜しそうに……母の亡骸に触れていました」  墓石に触れた細い手が微かに震えている。  月影寺の四男坊は強がりだ。  涙を堪えているようだが、俺がいると泣けないようだ。  そこに笹の葉が揺れる音がする。 「洋、待たせたな。花を摘んで来た」  丈はしなやかなシルエットの白衣を着て、手には白い花を持っていた。丈なりの正装なのだろう。 「なんだ、丈も来たのか」 「流兄さん? こんな所で、どうしたんです」 「いや、邪魔したな」 「いえ」 「後で翠兄さんと改めて墓参りをさせてもらうよ」  そう言い残し、再び走り出した。  大切な人と今生での別れは辛い。  それを知るこの身が叫ぶ!  早く、早く……翠に会わせろ、翠に触れたいと。  うっすら身体が汗ばんでくる。  翠を思えば、全身の血潮が沸き立つ!  
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