翠雨の後 5

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翠雨の後 5

 部屋に戻って、窓を全開にした。  春風を招き入れたくて、新風を浴びたくて。  すると風に乗って、父さんの読経の声が聞こえてきた。  オレはイヤホンをはめるのはやめて耳を傾けた。  昔はこの声が大っ嫌いだった。呪文みたいだし、何を言っているか理解不可能でシャットアウトしたく、お経が聞こえてくると耳を塞ぎたくなった。  だからイヤホンやヘッドホンで、大音量で洋楽を聴いて紛らわせた。  今も正直、お経の内容は理解不可能だけど、優しい父さんの声だと思うと親近感が持てる。  オレ……本当に変わったな。  自分で自分の変化に驚いている。  押し入れをあけて、昨日届いたばかりの制服を取りだした。  まだ白い箱に入ったままだ。  中学までは学ランだったが、今度の高校はブレザーだ。  海まで徒歩1分の由比ヶ浜高校は、流さんの母校。  グレーのスラックスに白いシャツ、濃紺のブルーの斜めストライプのネクタイ、そして濃紺のジャケットか。  カッコいいな!  少しだけ大人になった気分だ。  さっき父さんに宣言した通り、試着してみよう! 「ん? あれれ?」  ところが、ネクタイのやり方が分からない。  ネクタイなんて、小学校の入学式以来だ。  いや、あれはワンタッチ式だったか。 「うーん、困ったな」  父さんは檀家さんの法要で読経中だし、流さんはさっき買い出しに出掛けてしまった。この時間だと、丈さんは出勤してしまっただろうし……  今、この寺で頼れるのは、小森くんか洋さんだけだな。  微妙な選択肢だと苦笑した。  小森くんはジャージ姿か小坊主姿しかしたことないから、ネクタイを結ぶのなんて無理だろう。  じゃあ、残るは洋さんか。    意を決して、洋さんたちの離れに向かった。  すると洋さんはテラスで、飼い猫と戯れていた。 「洋さん、翻訳の仕事、今日はないの?」 「薙くん! いや、あるけど、少し気晴らしをね」 「ふーん、あのさ、ネクタイの締め方教えてくれる?」 「ん?」  自分の襟元を見せると、洋さんが明るく笑った。 「薙くん、それ高校の制服?」 「うん、今度はブレザーなんだ」 「……いいね、俺も高校はブレザーだったよ」  そのまま洋さんは押し黙ってしまった。  また何か地雷を踏んでしまったのか、心配になる。 「あのさ、ネクタイ、直してくれない? どうしても長さが揃わないんだ」 「俺でいいの?」 「こーいうのって、兄貴を頼るんじゃないかなって」 「アニキ?」 「そう! 洋さんと俺って結構な年の差だけど、なんかもっと近く感じるんだ。だからアニキポジションさ」 「薙くん……それって……」  あ、嫌だったかな?  心配になって様子を窺うと…… 「嫌だったら、ごめん」 「とんでもないよ。とても新鮮だよ! 嬉しいよ!」  洋さんは見たこともない程、明るい笑顔を浮かべてくれた。 「へぇ、洋さんって笑顔が可愛いんだな」 「な、薙くん」    洋さんが真っ赤になる。  ビシッー  やべー なんか背後から殺気を感じるぞ。 「薙……まさか……洋を口説いてるのか」 「ひ、ひぇー」  丈さんが不敵な笑みで現れた。 「ま、まだいたの?」 「今日は学会で、今から出掛ける所だ。しかし油断も隙もないな。その顔でその台詞。高校生活がさぞかし楽しみだな」 「と、父さんと叔父さんの血、ミックスだから」 「それでいい。頼もしいぞ。だが洋を口説くな」 「口説いてなんていないよー」 「ふっ。ネクタイひん曲がってるな」  結局丈さんに直された。 「洋のネクタイもいつもこんなだ」 「えー!」 「薙は洋にも似たらしい」 「えー!」  賑やかな日常が戻ってきた。  こうでなくちゃ。  人が集う場所には、笑顔が溢れるのが一番いい! 「丈、嬉しい言葉だ」 「だろう。なっ、薙」 「あぁ、なんだか楽しくなってきたよ。そうかオレのこの不器用さは洋さんに似たのか。納得したよ」  さぁ、駆け抜けよう。  今までの鬱蒼とした気持ちを、どんどん跳ね飛ばして!  
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