翠雨の後 6

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翠雨の後 6

 そっと父さんが読経している姿を、盗み見した。  背筋をピンと伸ばしてお経を唱える姿。  何度も見たことのある光景なのに、今日は少し違う印象を受けた。  ずっと仏門に携っている時は距離を感じていたのに……今日は違う。  父さんは、父さんなんだ。  どんな姿でもオレを大切にしてくれる人なんだ。  そう思えた途端、高い壁は消え去った。  もっと傍で明瞭に聞きたくて、オレは法要が行なわれている本堂の控えの間に潜り込んだ。  太い床柱を背に、読経をBGMに、目を瞑った。  良い音色だ。  春の麗らかな日差しに広がる慈悲深い声の持ち主は、オレの父さんなんだ!  誰かに自慢したいようなくすぐったい気持ちを抱くと、身体がポカポカしてきた。 ****  「薙……?」  檀家さんへの説法を終えて控えの間に戻ると、柱を背にもたれる我が子を見つけた。  まだ午前中なのに、もう眠たいの?  転た寝するなんて可愛らしいな。  昔よく薙と一緒に昼寝をしたよね。あの頃の僕は、都会のマンションで留守番をすることも多く、頭に靄がかかったようで、午前中から眠くなることが多かった。 「薙、身体を痛めるよ。そんな姿勢で眠っていると……」  そっと薙の前に屈んで肩に手を置くと、そのままずるっと僕の方に倒れ込んできた。 「わっ、これでも起きないといことは、ぐっすり眠っているんだね」    そっと薙の頭を膝にのせてやる。  膝枕はいつぶりかな?  流は頻繁に強請るけれども、薙は小さい頃以来かも?  小さな頃、膝枕してあげると、いつも嬉しそうに僕を見上げてくれたね。 …… 「パパ、いっしょにねんねしよ?」 「そうだね」 「パパもねむいでしょ?」 「うん、そうだね」 「パパ、いいこいいこ」 ……  今のいっくん位だったか。  舌足らずのしゃべり方が愛おしかった。  大切な息子だよ、薙は……今も昔も。  よく見ると、薙は高校の真新しい制服を着ていた。 「あっ、そうか、見せてくれようとしたんだね」  首元を見ると、ネクタイを綺麗に締めていた。 「意外だな。初めてだからきっと上手く結べないと思ったのに、こんなに綺麗に結べるなんて……父さんも練習したんだけどな」  思わず呟いてしまうと、薙がパチッと目を覚ました。 「父さん、今のほんと?」 「今の聞いて? ど、どこから起きていたの?」 「今、さっきだよ。これさ、上手く出来なくて、丈さんにやってもらったんだ」 「なるほど、几帳面な丈らしいね、長さのバランスも結び目もスマートだよ」 「でも自分でも出来るようになりたいから、父さんコツを教えてよ」  不器用な僕が薙に教えてあげられることは、そう多くはない。  でも、これは父親としての出番なのかも。  こんな日を夢見て、流に何度も教えてもらったんだ。 「いいよ、父さんは不器用だけど、不器用なりにやってみた」 「うん、オレも父さんに似て不器用だから、不器用でも出来るやり方を知りたい」 「くすっ、父さんはやっぱり不器用認定だな」 「でも、オレもだからいいじゃん!」 「そうだね、薙と一緒なら光栄だよ」  流が提案してくれたのは、結び目(ノット)を作ってからタイを首に掛ける結び方で「プレーンノット」という名称で、鏡を見ながら小剣を後ろにずらして整える方法だった。直接見ながら結び目を作れるので、不器用な僕にも扱いやすかった。  それを薙に教えてあげた。 「うわ、ちょっとキツかったかな?」 「薙……結ぶとか締めるという意識が強すぎると、キツく締め過ぎて生地も首も苦しくなってしまうよ。あのね、これは人間関係でも同じだよ。あまり相手を雁字搦めにしてはいけないよ。相手の気持ちも自分の気持ちも余裕を持つのが一番だ。その余裕部分……つまりね、ほんの気持ち、緩ませてふわっとした感じでいると、ぐっと風通しが良くなるよ」 「ふーん、父さんの話って奥深いな」 「あ、ごめん……また僕は……」  つい薙相手に住職モードで説法をしてしまった。  これでは、せっかく歩み寄ってくれたのに、また薙が引いてしまう。  キュッと唇を噛むと、僕の意に反して薙は大きく頷いてくれた。 「父さん、ありがとう! 高校生活を迎えるにあたって気が引き締まる言葉だね。新しい人間関係の役に立ちそうだ。オレ、父さんが住職で良かった。こんなに貴重な話をいつでも聞けるんだもんな」 「え……」  今までにない反応に驚いていると、薙が照れ臭そうに笑った。 「父さんの仕事、尊敬してるよ。決して嫌いなんかじゃないよ」  今までずっと気になっていたことを、薙が自分の手で薙ぎ払ってくれた。        
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