翠雨の後 11

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翠雨の後 11

 夕暮れ色に染まる月影寺の離れ。  俺は朝から翻訳原稿と格闘していた。 『峠を越えて』という物語を翻訳してから、俺宛ての依頼が増えて嬉しい悲鳴だ。だが今後は少し仕事を減らしていこうと思っている。  翻訳や通訳の仕事も好きだが、丈の傍にいたいからだ。  由比ヶ浜の診療所が完成したら、丈のサポートをしたい。  丈の傍にいつもいたい。  それは恐らく遠い過去の俺の願い、憧れだったのだろう。  そして今を生きる俺の夢だ。  夢なんて抱いても無駄だ。暗黒に蹴落とされた俺には、もう夢も希望もない。このまま一刻も早く朽ち果てたいと願ったこともある俺が抱く夢は極上の幸せを孕んでいる。    キーボードを打つ手がピタリと停止した。  それは推敲作業の終了を意味している。 「よし、あとは原稿ファイルを出版社へ提出して……ふぅ、これで今日の仕事は終わりだ」  PCを閉じる前に、ふと明日の天気が気になった。  明日は薙くんの入学式だ。  俺には直接関わりはないが、晴れるといい。  俺の高校の入学式は思い出したくもないが、中学の入学式は母との思い出が詰まっている。 …… 「洋、制服を着たら、見せてね」 「うん……でもお母さん、これ……喉元がキツいよ」 「まだ慣れないのね。でもとても似合っているわ。あなたのお父さんも学ランだったのよ」  そう言いながら、母は俺の身体をふわりと抱きしめた。  ほっそりとした腕。男なら誰でも守ってやりたくなる少女のような女性だった。  俺の父さん……  義父と暮らすようになってから、その話はタブーだったので、久しぶりに実父の話をしてもらえることが嬉しかった。 「あの人、今日から出張で三日間いないの。だから洋とゆっくり過ごせるわ」 「そうなの? お母さん、じゃあ一緒に入学式にも行ってくれる?」 「もちろんよ」  あの年は桜の満開が入学式と重なって、最高の景色だった。  美しく儚い母と並んで歩む道は、まだ何一つ穢れてはいなかった。   「洋、桜の木は来年もまた美しい花を咲かせるのよね」 「うん、来年も一緒に見よう」 「……私は桜の精になって、毎年洋に会いに来るわ」 「どういう意味?」 「今日は少し遠回りして帰りましょう」 ……  懐かしい記憶を辿って、思わず声を上げてしまった。  そうか、あの日の遠回りって、そういう事だったのか。  見知らぬ駅で降りて、お屋敷が建ち並ぶ道を母と歩いた。 「洋、手、繋いでもいい? もう恥ずかしい?」 「ううん、繋ぎたい」  今なら分かる。  あの日、母と手を繋いで歩いたのは、おばあさまの住む白金だった。  母はあの日も実家に行こうとしていたのか。  途中で立ち止まり、首を振ってUターンしてしまったが……  ただ空の青さと桜の花の色だけが鮮明に記憶に残っている。  俺が何か知っていたら、母の手を引っ張ってあげられたのに。  あんな寂しい旅立ちをしなくて済んだのに。  後悔してももう仕方がないことだ。  気持ちを切り替えていこう。 「明日の天気、あの日のように青空だといいが」    PCのトップ画面を開くと、芸能ニュースの片隅に見慣れた名前を見つけて驚愕した。 「えっ!」 『ブレイク中のモデル・月乃涼が外国人男性と意味深な早朝のハグとキス! 真相はいかに?』  な、なんだ……これは!    そこに、けたたましく電話が鳴った。 「もしもし……」 「洋!」    声の主はすぐに分かった。  俺の幼馴染み、そして涼の恋人の…… 「安志、どうした?」
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