翠雨の後 30

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翠雨の後 30

 流と肩を並べ足並みを揃え、大地をしっかりと踏みしめた。  僕はこの一歩をけっして忘れない。  小鳥の囀りに顔を上げると、例年より早く咲いた桜の枝に新芽が出ているのが見えた。  小さな芽はあっという間に成長し、大きな葉になる。  小さかった薙が、今日から高校生になるように――  季節も人も大きく動き出す春がやってきたのだ。 「翠、どうする? 先に着替えるか」 「うん」  そのまま流に2階の自室に連れて行かれた。 「今日もスーツでいいんだよな?」 「うん、卒業式に作ったスーツ、とても着心地が良かったからね」 「そうか、大河さんが聞いたら喜ぶよ」 「あっ、しまった。流のスーツも選びに行くつもりだったのに、まだだったね。ごめん」 「そんなのいつでもいい」 「だが、これから必要になるだろう。僕たち行動を共にすることが増えるのだから」  流は一瞬ポカンとした表情で僕を見つめ、その後照れ臭そうに笑った。  人懐っこい笑顔だね。  手を伸ばして、流の頬をそっと撫でてみた。 「僕はね、この笑顔が好きなんだ。だからもっと見せておくれよ」  「おいおい、翠は天然のたらしか」 「ふふつ、流専門のね」 「言ったな」 「さぁ早く着替えさせておくれ」  僕は流の前に立って、袈裟を脱がしてもらった。  肌襦袢を落とされると、すぐに素肌が露わになる。  今度は流が、僕の左胸に手を手を伸ばしてきた。 「ここ、だいぶ綺麗になったな」 「うん、日に日に消えていくのが嬉しいよ」  もうあの忌々しい火傷痕はない。  あるのは手術の痕のみだ。  その手術の痕も、だいぶ薄くなっていた。 「丈は腕がいいな」 「うん、それからテツさんの薬湯や軟膏もよく効いているよ。きっと夏にはもっと綺麗になっているよ。だから……」 「あぁ、海でもプールでも好きな所に連れて行ってやる」 「また皆で賑やかに行きたいね」 「ご所望のままに」    僕は未来への楽しい夢を抱けるようになった。  僕達だけでなく、月影寺を拠り所にする人達ともっと語り合いたい。  交流を深めたい。  それが僕の今生の使命のような気がしている。  なんて、流に話したら笑われてしまうかな? 「翠、ネクタイも卒業式と同じでいいのか」 「そうだね、そうして欲しい」 「翠には紺瑠璃がやっぱりよく似合うな。紺色の中に滲む華やかさが翠の明るい髪色と白い肌に合っている」 「ありがとう。さぁ流も着替えて」 「俺も?」 「入学式も一緒に行こう」  僕は何の躊躇いもなく流を誘っていた。  それが自然だと思ったから。 「薙は、今は僕たちの子だ。流にも薙の晴れ姿を見て欲しいんだよ」 「しかし……俺はあの高校でいろいろやらかしたから……まずくないか」 「ふふ、おいで。兄さんが目立たないようにしてあげよう」    卒業式と同じように、流にも濃紺のスーツを着せた。 「静けさを表したかのような凛とした留紺のネクタイが、よく似合っているよ」  いつもは袈裟と作務衣の僕たちが、スーツ姿で向き合うのは少しだけ面映ゆかった。 **** 「薙、そろそろ起きないと」 「えっ! もうそんな時間?」 「うーん、寝坊助なのは流に似たのかな?」  枕元で声がしたので飛び起きたら、父さんはもうスーツを着ていた。 「今、何時?」 「7時だよ」    なんだ、まだ7時じゃないか。そもそも寝坊助なんて、そんな言葉イマドキ使わないよ。でも父さんが朝からオレのために張り切っているのが嬉しいので、笑顔で応じた。 「おはよ、父さん」 「おはよう、薙」 「ちょと待てて、顔洗ってくるから」 「うん」  歯磨きをして顔を洗って簡単に髪を梳かしてダッシュで戻ってくると、父さんは部屋の雨戸を開けて、新鮮な空気を取り込んでくれていた。  そしてそのまま壁にかけてあった真新しい制服を、目を細めて眺めていた。  そっか、嬉しい気持ちって連鎖するんだな。 「父さん、ネクタイさ……あれから言われた通り練習したんだけど、まだ下手なんだ。今日だけ父さんが締めてくれない?」  手を合わせて頼むと、父さんは極上の笑顔を浮かべてくれた。 「もちろん、いいよ。さぁおいで」  父さんも、きっとあれからまた練習したのだろう。  とてもスムーズな手つきだった。  これはきっと何度も流さんを練習台にしたんじゃないか。  でも……甘えてみて良かった。  甘えるのって格好悪いと思っていたけど、違うんだな。  心から信頼できる人、心を許せる人に甘えるのって、大切なことなのかも。  今の父さんとオレの間には、確かな信頼関係が成り立っている。だからオレが父さんに「甘える」のは、自然な愛情表現でコミュニケーションなんだよ。  今までの蟠りがまた一つ解けたってことかな。 「薙、すっかり大きくなって、高校の制服がよく似合っているよ」 「ありがと! えっと……オレ……今日から高校生になります。これからもよろしくお願いします」 「改まって、どうしたの?」 「ちょっと言ってみたかっただけ!」 「うん、そうか」  こんな間も前は気まずかったのに、今は日だまりのような和やかな空気が流れている。 「……流さんも来てくれる?」 「もう準備万端だよ」 「やった!」 「まずは朝ご飯を食べないと」 「腹減った!」  さぁ、高校生活の始まりだ。  新鮮な気持ちで一杯だ。  父さんと心を揃えて踏み出せた、この朝を忘れないよ。  
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