翠雨の後 32

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翠雨の後 32

「おはようございます」  朝食を食べていると、珍しく丈と洋くんがやってきた。  丈は出勤前のようで、春物のトレンチコートを羽織っていた。  洋くんはいつものようにタイトなベージュのチノパンに、今日はミモザ色のシャツを着ていた。  きっと全身、丈の見立てなのだろう。  透明感のある色が、彼には似合う。  そして明るい色も似合うようになった。 「二人揃って、朝から珍しいね」 「薙くんに渡したいものがあって」 「オレに?」  洋くんが精一杯の笑顔で、薙にご祝儀袋を渡した。  『入学御祝』 張矢 丈・洋  月影寺で婚姻の儀式を挙げた二人は、今は同じ姓を名乗っている。正確には僕たちの両親の養子になったので、丈のパートナーであって、僕たちの弟、月影寺の四男だ。 「薙くん、これ、俺たちからのお祝いだよ。もう高校生だから好きなものに使って欲しくて」  洋くんはお母さんが亡くなった後、当時は義父以外の身寄りがなく相当な苦労を強いられた。  人としての尊厳を奪われる程のどん底から這い上がり、ここまで辿り着いた人だ。  そんな君が、甥っ子の入学祝いのために朝から駆けつけてくれるなんて、有り難いことだ。  洋くんが自分の殻を破ろうとしているのが手に取るように伝わってくる。  最近凜々しさに磨きがかかっているよ!  月が欠けては満ちるように、洋くんは自在になっていく。 「ありがとう! 嬉しいよ。父さん預かっていて! 必要な時に必要なだけ使うよ」 「分かった。洋くん、丈、息子のためにありがとう」 「俺たちも何かしたかったんです」  洋くんが目を細めて、薙を見つめる。 「制服のブレザー、よく似合っているね。君には青春を謳歌して欲しい」 「うん! オレ、毎日を大切にするよ」  洋くんが無事に送れなかった高校生活を思うと胸が塞がるが、過去は過去でしかない。だから前にも進むために、希望を託す相手が、薙なのかもしれない。  僕の結婚の意味も、噛みしめる。  薙が生まれた意味を―― 「さぁ行こうか」 「朝食の後片付けは、私たちがしておきますよ。まだ時間があるので」 「助かるよ。丈がいるなら安心だ。あとは任せた」 「翠兄さん、今日は父親としての時間を大切にして下さい」 「うん」  人の一生の時間は限られている。  だからこそ、どんな日も縁に恵まれた日であることを自覚して、毎日を大切に生きていくことが仏道修行者の生き方だ。  そのことを心に留めて、一日一日を大切に精一杯生きていきたい。 「良き日となるように心がけるよ。日日是好日(にちにちこれこうにち)、どんな日も大切な日なのだから」  薙の小学校の入学式も中学の入学式も、彩乃さんの許可を得られず、列席させてもらえなかった。  だから、やっとなんだ。  中学の卒業式から、ようやく僕は父親らしい振舞いを出来るようになった。  息子の高校入学式。  僕にとって、高校生の父となる日だ。  薙が健康に安全に、楽しく青春を謳歌できますように。 「父さん、入学式って、いくつになってもドキドキするよ。父さんもそうだった?」 「僕は中高一貫だったから…そうだ、中学からの友だちはいるの?」 「いるはいるけど、拓人がいないから不安だよ」 「拓人くんも今きっと同じ気持ちだよ」 「そうだね。拓人も頑張っているんだ、オレも頑張るよ」  僕は改めて薙を見つめた。  僕によく似た顔に一抹の不安を覚えるが、持っている雰囲気が根本的に違うことに安堵する。 「薙の性格、流に似て良かった」 「オレ、父さん似の顔も案外好きだよ」 「えっ」  そんなこと今まで一度も言わなかったので驚いた。 「薙?」 「オレ、これで顔まで流さんにそっくりだったらせっかく流さんが築いた伝説を覆しちまうだろ? 流さんの伝説は父さんの宝物なんだしね」 「くすっ、母さんが頻繁に学校に呼び出されたのを思い出したよ。父さんと母さんがいない時は、僕も駆けつけた」  保健室で鼻の頭に絆創膏を貼って逞しく笑う流を見ると、不謹慎だが嬉しかった。 「やっぱり! なんかワクワクしてきた」 「きっと薙にも合った校風だよ。薙、楽しんでおいで!」 「薙なら伝説を塗り替えてもいいぞ!」 「参ったな〜 なんかオレ変な期待をされてる?」 「ははっ、学校に駆けつける用事も入って、忙しくなりそうだ」  3人で肩を並べて、笑顔で高校の門を潜った。  笑う門には福来るだ。  笑いの絶えない家族になろう!      
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