雲外蒼天 15

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雲外蒼天 15

 午前中は猫と戯れ過ぎて読経がおざなりになってしまったので、午後は精神統一して御仏に向き合った。 「よし、ここまでにしよう」  気付けばかなり集中していたらしく、額にうっすら汗を浮かべていた。  今日は朝のニュースで、季節外れの夏日になると言っていた。 洋くんたちが由比ヶ浜に遊びに行くには丁度良いが、本堂の中は蒸し暑くて大変だ。  「今、何時かな?」  後ろで一緒に読経させていた小森くんを振り返ると、今にも倒れそうなほどしょんぼりしていた。 「ど、どうしたの? 脱水症状か」 「いえ、水分は足りています。あのですね……ご住職さま、ぼーん、ぼーん、ぼーん、ぼーんですよぅ」 「んん?」  虚ろな目の小森くん、一体どうしたのか。 「時計の鐘が4つ……つまり4時です」  そこでハッと気付く! 「なんだって! それは大変だ。おやつの時間を過ぎてしまったんだね」 「はい、あんこ不足警報です。でも、僕……頑張りました。ご住職さまの読経についていきました」 「うん、ずっと小森くんの声は届いていたよ。頑張って偉かったね。今日のおやつは特別に二倍のあんこにしよう」  小森くんの耳がまたピョンと立つ。 「あんこ! 二倍! 武士に二言なしですよ」 「武士ねぇ……うん、もちろんだよ。さぁおいで」 「はい!」  僕が手を差し出すと、小森くんが嬉しそうに笑った。  可愛い僕の愛弟子を、今日も甘やかそう。  流は怒るかもしれないが、あんこは二倍確約だ。 「あんこ、あんこ、あんこちゃーん」  僕と手を繋いで廊下を歩く小森くんは、いっくんや芽生くんと変わらない幼さだ。  だがこの月影寺では、誰も咎めないよ。  ここはね、ありのままの姿で過ごしてもいい場所だから。  僕の結界に、君もお入り――   ****  ヤバイ! 檀家のばーさんと長話をしてしまって、すっかり遅くなっちまったぜ。  法要の日時決めに、あんなに手間取るとはな。  俺は庫裡に飛び込み前掛けをつけて、戸棚から秘密兵器を取りだした。  今日のおやつはなんと手作り鯛焼きだ!  先日うっかり合羽橋で鯛焼きの焼き型を入手しちまった。いっとくが小森のためじゃないぞ、翠のためだ。ちなみに、一匹ずつ手焼きするのを『天然』と言うそうだ。何匹も連なった型で一気に焼くのは『養殖』だってさ。  店の主人め面白いことを。是非とも翠に『天然』ものを食べさせたくなるじゃねーか。  1匹1匹を丁寧に焼き上げた。  皮は薄皮でサクサクに仕上げ、しっぽまであんこが詰まった上物の完成だ。  あー 早く翠に会いたい。  住職の仕事を労ってやりたい。  そこに足音が近づいてきた。 「翠、今日は鯛焼きに挑戦したんだ」 「流、今日は小森くんあんこ2倍でお願いできるかな?」  入って来た翠が放った言葉に苦笑する。  色気なし! あんこあり!  後ろではぐぅぐぅと腹を鳴らす小森がしょんぼりとお腹を擦っている。 「あー 腹ぺこなんだな。もう4時だもんな。いつもより長引いたな」 「集中してしまって小森くんに悪いことをしたよ」 「しかたがねーな。小森、今日のおやつは鯛焼きだ。あんこを2倍詰めると破裂するから、二枚やろう」 「え! やったー やったー やったー!」 「子供かよ」  その横で翠が興味津々に鯛焼き機を見つめている。 「すごいね」 「そうか」 「うん、職人技の手捌きだよ」  翠はいつも俺の一挙一動を優しく見守って褒めてくれる。  そうだ、翠は褒め上手なんだ。  昔から俺の下手くそな絵や工作も「流、すごいね。流は本当に上手だなぁ」なんて目を輝かせてくれるからさ、頑張れたんだ。  兄さんに褒められたくて努力を重ねるうちに、どんどん手先が器用になった。  料理も裁縫もどんどん上達していった。  小森が鯛焼きを腹からモグモグ食べているのを尻目に、そっと翠の腰を抱いた。   「あっ」  細い腰に手を回して引き寄せて、耳元で囁いた。 「翠は何枚食べたい?」 「僕は一枚で、流はどうする?」 「俺は翠を少し食べたい」 「えっ」  翠は明らかにドギマギしているようだった。  その額に汗が浮いているのが見えた。 「汗をかいているな」 「ん……根を詰めてね。しかし今日は蒸し暑いね。あのね、もう少し薄い袈裟にしてもらえると嬉しいよ」  いつも俺の意を汲んでくれる優しい翠。  小さい頃からいつもいつも俺の気持ちに寄り添ってくれたから、なせる技なんだな。 「了解、ちょうど夏用の袈裟を準備していた」  少しだけ、俺に時間をくれる。  最近の翠はとても寛大だ。
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